"Fullness" 田中いづみ という生き方
東京〜ニューヨーク に生きる ----- ダンサー、振付家、女性、妻、母、人として

「田中いづみ連続ロングインタヴュー」by上野房子

第9回 田中いづみ、ニューヨークで踊る
コンテンポラリー・ダンスのメッカ〈セントマークス〉での単独主催公演

 1998年11月19日から22日までの4日間、田中いづみは、ニューヨーク市内の劇場で自身の主催公演を行なった。それ以前にも文化庁の在外研修員としてニューヨーク滞在中だった1986年に現地のプロデューサー、マーティン・ラッセル氏の企画による第4回〈International Offestival〉に招聘され1時間ほどのソロ作品を発表する単独公演を行い、1989年に入学、1991年からは講師を務めたニューヨーク大学大学院では学内コンサートに出演・出品している。しかし本公演は、彼女がニューヨークで初めて自ら企画した単独公演となった。

『The Wishful Tree II』『Moon Light』

1998年11月19(木)〜22日(日)
St. Mark’s Church in-the-Bowery
131 East 10th Street, New York, NY 10003


何かやらないと、始まらない

 「ニューヨークでの生活も10年を超え、なんとかして自分の活動をしたい、という思いを募らせていました。とあるダンス公演で会ったビル・T・ジョーンズ(ニューヨーク在住のダンサー、振付家)から『何かやらないと、始まらないよ』、と助言されました。彼の言葉も、大きなきっかけになりました」
 田中は速やかに準備を始めた。公演会場には、一も二もなく、セントマークスこと、〈セントマークス・チャーチ・イン・ザ・バワリー(St. Mark's Church in-the-Bowery)〉を選んだ。イースト・ヴィレッジの一角にある小劇場である。同じくイースト・ヴイレッジに位置する〈ラ・ママ・シアター〉、チェルシー地区の〈ダンス・シアター・ワークショップ(2001年にニューヨーク・ライブ・アーツと改編・改称され、ビル・T・ジョーンズが芸術監督に就任)〉と共に、年間を通じて多彩な振付家に作品発表の場を提供し、ニューヨークの前衛的なダンスシーンを牽引する拠点なのだ。
「ニューヨークで公演をするならセントマークスしかない、と思っていました。念頭にあったのは、私の師、石川須妹子の師匠である檜健次(1908〜1983)先生の存在です。ニューヨーク大学で受講した授業の課題で檜先生についてリサーチをした時に、セントマークスで公演をされたことを知ったのです。といっても、セントマークスは、誰にでも劇場を貸し出すことはしません。泥臭いというか、より前衛的なアーティストの拠点なのです。でも、いったん目標を決めたら、それを実現するための苦労は惜しまないのが私のモットー。キュレーターと呼ばれるプログラム編成の担当者に連絡を入れ、履歴書や映像を提出し、面接を受けて、私の経歴をアピールしました。すんなりと利用できることになりました」

教会・兼・オープンスペースの小劇場

 セントマークスでは、通常、年間20週前後にわたって〈Danspace Project〉という企画公演を行い、アメリカ国内外の意欲的な振付家を紹介している。1998年秋から翌99年6月のシーズンには、スティーヴ・パクストン、ダグラス・ダン、チュウマ・ヨシコ(中馬芳子)、サラ・ピアーソン&パトリック・ウィドリッグ(田中と同じくニューヨーク大学教育学部で講師を務め、現在はメリーランド大学教授)など、ポスト・モダンダンスの中核メンバーをはじめとする錚々たるアーティストがお目見えした。キュレーターの審査を通過した田中の公演もまた、〈ダンスペース・プロジェクト〉の一環として行なわれることとなった。
 正式名称に〈チャーチ〉と付されているように、セントマークスは、もともと17世紀中頃に教会として設立され、今日に至っている。ニューヨーク市内に現存する最古の教会としてもつとに知られ、1890年代に再建された現在の建物は、アメリカ合衆国政府に認定された歴史的建造物でもある。1960年代には芸術を取り入れたコミュニティ活動を始め、礼拝堂は〈ダンスペース・プロジェクト〉の会場としても活用されるようになった。  したがって、通常の劇場であれば舞台が設置される空間には、祭壇が常設されている。公演時には説教壇や祭具、信徒席の長椅子を運び出し、祈りの場をパフォーマンスの場に早変わりさせるのだ。観客は左右の壁際に据え付けられた階段状の客席とその上部のバルコニー席に着席し、眼前に広がる長さ14メートル、幅11メートルほどのフラットなスペースで踊るダンサーを見る、もしくは見下ろす。収容人員は300人程の小ぶりな空間ながら、プロセニアム・アーチがなく、標準的な劇場よりも天井が高いため、広々とした開放感がある。
 レンタル期間が1週間単位であることも特色だ
。 「1週間も会場を使うなんて、初めてのことでした。日本では公演回数が複数回だとしても、何日も会場を借りる予算はありませんから、限られた時間内で仕込みとリハーサルと本番をこなさなくてはなりません。セントマークスでは、火曜日、水曜日は会場にこもって十分にリハーサルをして、公演は木曜日から日曜日まで、全部で4回!」
 出演ダンサーは、田中と島田美智子、杉山美樹、中尾喜子、時田ひとし、田川慶治。いずれも田中作品の常連である。田中が夏と秋口に一時帰国して振付、稽古をし、ニューヨークでいま一度、顔を合わせて仕上げのリハーサルを行った。
「ニューヨークでやるからには現地でダンサーを募集しようか、と考えたこともあります。しかし、ニューヨーク大学の教え子たちは、大学院修了後、ほとんどがニューヨークを離れていました。未知のダンサーと出会い、彼らと創作することにも惹かれましたが、たとえ彼らが優れたダンサーだとしても、精神的なものまで一体化するには長い時間を要するので、難しい。日本で私の作品を踊っていたダンサーに声をかけることにしました。長年、苦楽を共にしてきたダンサー達に、ニューヨークの晴れ舞台に立って欲しい、という気持ちもありました」

ニューヨークのリアルな劇場事情

 公演に先立つ制作の段階で、田中は早くも目から鱗が落ちるような経験をした。
「パブリシティやチケット販売といった制作の仕事は、セントマークス側が付けてくれたスタッフに任せました。たとえば、セントマークスが持っている観客リストに公演情報を送付する、踊りに興味を持っている団体に売り込む、種々のメディアに公演情報を送る。なかでも常連客のリストを活用できたことは、心強かったです。実績のある劇場だから蓄積できた、集客の切り札ですから。流した情報は実を結びました。ダンス専門の新聞や雑誌だけでなく、ニューヨーク・タイムズなどの一般紙・誌で公演の日程が紹介され、日系のテレビ局の番組でも取り上げられました。後日、公演評も掲載されました。ダンスが社会に浸透しているとは、こういうことなのですね。ダンス公演は一握りの特別な人を対象にしたものではない、不特定多数の人が関心を持っている、と実感できました。制作を委託したスタッフや私が独自に雇ったスタッフのギャラ、宣伝用のポストカード、ポスターの経費は私が負担しましたが、チケットの売上金は歩合制で、セントマークスの手数料を差し引いた金額を受け取りました。日本とは異なるシステムのおかげで、私は振付家・ダンサーとして、自分の仕事に専念できました。日本では制作を外部に委託しても、私自身で観客動員のためにコミュニケーションをとる必要があります。振付家の立ち位置がかなり違います」
 制作スタッフの助力も奏功し、見ず知らずの観客が田中の公演に足を運び、公演後には、〈fabulous(素晴らしい)〉〈excelent(とても良かった)〉〈happy(楽しんだ)〉といった好意的な言葉が寄せられた。
「観客気質の違いも印象的でした。知らない振付家の公演だから、初めてニューヨークで公演するカンパニーだから見に行ってみよう、という好奇心を持った観客がいる。知名度や話題性といった、他人の評価には左右されず、自分の〈見る目〉を信じている観客もまた、ニューヨークのダンスの一翼を担っていることを痛感しました」
 劇場の運営システムに加えて、舞台裏が、日本とは異なるシステムで支えられていることにも、田中は瞠目した。アメリカの舞台関係者の人件費は、ユニオンと総称される労働組合の類で細かく規定されているため、さぞや高額だろうと思いきや、必ずしもそうではないようだ。
「裏方は、この人だ!というスタッフを私自身が指名しました。照明は、ニューヨーク大学芸術学部〈ティッシュ・スクール〉(田中が学んだダンス教育学部とは別個の学部で、パフォーミング・アーツ、映画、メディア芸術の専攻を持つ)の卒業生に依頼しました。舞台監督やサウンド・ミキサーは、セントマークスに常駐するスタッフに受け持ってもらいました。驚いたのは、現場で仕事をする人数が少ないこと。セントマークスの設備がシンプルだからなのかもしれませんが、細かな調整をするオペレーターは不要で、一人か二人で操作できるんです。日本の劇場であれば、7、8人のチームに一括で照明を依頼することが一般的です。舞台裏のスタッフの人件費は、3分の1から4分の1程度に抑えることができました」

 プログラムは、『The Wishful Tree II』と『Moon Light』。いずれも1994年に田中が草月会館で行なった公演で初演した作品だ。
 『The Wishful Tree II』は田中の10分ほどのソロ。前田晢氏がデザインした、一本の大木をイメージさせる舞台美術を祭壇スペースに設置した。前田氏がすでに他界していたため、彼の舞台美術を管理している並河万理子氏から再使用の許諾を得て、デザイン画に基づき、ニューヨーク在住のアナ・ルイゾス(Anaa Louizos)氏が製作した。2004年にブロードウェイの演劇界でもっとも権威があるとされる〈トニー賞〉でミュージカル部門の最優秀作品賞を受賞した『Avenue Q』で同賞装置部門にノミネートされ、『High Fidelity』(2007年)、『In the Heights』(2008年)、『The Mystery of Edwin Wood』(2013年)では最優秀ミュージカル装置デザイン賞を獲得した舞台デザイナーである。〈ティッシュ・スクール〉卒業後にデザイナーとして頭角を現す前のルイゾス氏は、田中の夫君が経営する食品関係の会社で長らく働き、やがてマネージャーに昇進、辣腕を振るった経験を持つ。劇場の外での思わぬ接点から、未来の大家の協力を得ることができたのだ。
「舞台後方の祭壇にドーンと大きな、アブストラクなデザインの一本の木を設置しました。私はその木と対峙し、会話をする。大きな木に比べると、自分は小さな存在だけれど、その木のように成長していきたい、という気持ちをこめて踊りました。セントマークスは、本来、教会だということもあり、他人に自分の踊りを見せるというよりも、その空間に、観客と共に溶け込んでいる自分がいました」
 『Moon Light』では、田中と5人の男女ダンサーが共演した。
「草月での初演時よりも出演者を減らしましたが、構成はほぼ同じです。音楽はベートーヴェンのピアノ・ソナタ、通称『月光』で、月光の元に集った人々がソロを踊り、デュエットを踊り、全員で群舞を踊る。個を大切にしながら共存し、生きていく姿を描いた作品です」

日本とニューヨーク、出演料のシステムもまた違う

 本公演では、日本からダンサーを迎えたが、仮に地元在住のダンサーを起用していたら、渡航費と宿泊費が生じない代わりに、また別の経費が発生する。日本とニューヨークでは、ダンサーの出演料の支払い方が異なるのだ。
「ダンサーのギャラ体系も、日本とは違います。アメリカでは出演料だけでなく、リハーサルにもギャラを支払います。逆に言えば、ギャラが保証されなければ、彼らは踊りません。仕事を得る競争が厳しい反面、ダンサーの立場を尊重し、彼らを厚遇しているのですね。日本の場合は、本番とリハーサルを合算して、ギャラを決めます。勉強中のダンサーが師事している振付家の公演に出演するのであれば、舞台出演を勉強の場と見なし、出演料を計上しないことが主流になっています。ダンサーとしてはアメリカ方式の方が良いでしょうが、その分、ダンサーのレベルによっては舞台に出られるチャンスが一向にないまま、悶々と練習だけに励まなくてはならない人も出てきます。ダンサーを使う側も、スポンサーが付いていれば良いですが、独力で資金を調達できないと作品を発表するチャンスさえ掴めなくなってしまいます」
 幾つもの関門をくぐり抜けて実現にこぎつけた公演で、田中自身は、どのような手応えを感じたのだろうか。
「ニューヨークで公演をやり遂げた経験は、その後の私のキャリアに本当に役立っています。それまで日本で自分の公演をやる時には、私自身が若く、経験が浅かったこともあり、信頼している先輩方の『こうした方がいいよ』というアドバイスに助けられました。でも、いつの間にか、受け身になっていたことも事実です。その段階を経た後にニューヨークで独力で公演をやったことによって、今までのやり方が全てではない、ニューヨークにはニューヨークのシステムがあることを学びました。スタッフや出演者の人件費、切符の販売、広報宣伝。万事、自分で主体的に対処するようになりました。経費に関しても、これは予算をオーバーしてしまうから再考して欲しい、というように提案し、ていねいに交渉を重ねます。自己主張をするべき時に、気負うことなく自己主張ができるようになったのかもしれません」

母としての人生にシフトする

 多くの糧を得たセントマークス公演を境に、田中の生き方は新たな局面を迎える。アメリカでは依頼があれば出演し、日本でも現代舞踊協会を始め、外部公演、合同公演、2000年の「田中いづみ・馬場ひかりジョイント公演」など、折々に作品を発表していた。しかし2007年に活動拠点を日本に移し、同年10月に文化庁芸術祭参加公演として地球温暖化を危惧した作品『青い魚たち』と『NOHARA』を発表するまでの7年間、単独の主催公演は行なわなかった。

「2001年に同時多発テロが勃発した後は、精神的な衝撃があまりにも大きく、率直に言って、創作意欲が削がれてしまいました。でも、それだけではありません。翌02年、娘に続いて、1歳年下の息子が中学生になったのを機に、自分の生き方を、もともと考えていた方向にシフトしました。つまり、二人が大学に進学するまでは家族中心の生活をし、子供達が自立したら、自分のやりたいことに邁進しよう、と決めていたのです。私が、親として子供たちに必要とされる期間は、二人が18歳になる時までしかない。その後は、彼らは私の手を離れ、自分の人生を歩んでいくでしょう。子供が生まれた時から、常にそう思っていました。2002年の時点で、二人が大学生になるまでの時間は、残り5年を切っていました。18歳の節目が来る前に、人間としての基本を培う教育をやり遂げておかなくてはいけない。娘と息子との日々を優先するために、大きな作品を作る時間とエネルギーを、いったん封印することにしたのです」



Interview and text by Sako Ueno 上野房子

上野房子プロフィール

ダンス批評家
共同通信、音楽新聞他に寄稿
翻訳書にヴァレリー グリーグ著「インサイドバレエテクニック 正しいレッスンとテクニックの向上」
明治大学・明治学院大学非常勤講師
目下、スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」の翻訳の仕上げに邁進している。