"Fullness" 田中いづみ という生き方
東京〜ニューヨーク に生きる ----- ダンサー、振付家、女性、妻、母、人として

「田中いづみ連続ロングインタヴュー」by上野房子

第1回 田中いづみが見た「311」と「911」

その1

------2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源にしたマグニチュード9の巨大地震が発生。一帯の沿岸には想定を遥かに越えた大津波が押し寄せ、多くの人命が失われた。震源地から400キロ離れた東京も震度5強の強震に襲われ、一瞬にして社会生活は混乱におちいった。「東日本大震災」である。
 この日の午後、カルチャー・センターでレッスンを教える予定でした。いつもなら出かけていた時間だったのに、なぜか準備に手間取り、地震が起きた時は在宅。カルチャー・センターは休講になりましたが、夜の現代舞踊協会の新人公演「Dance Plan 2011」には駆けつけるつもりでした。この公演に出品された作品で、夏期舞踊大学講座の 受講者が踊ることになっていたからです。私はこの講座を企画・制作した研究部の部長をしており、公演を見届ける責任がありました。ところが地震の影響は予想以上に大きくなり、交通機関が止まり、公演は中止に…。テレビのニュースで被害がみるみる拡大していく経過を目の当たりにし、唖然とするしかありませんでした。
 地震が起きた時、すぐに頭をよぎったのは、10年前の9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロのこと。かたや過激派によるテロ、かたや自然災害という違いがあっても、どちらも「11日」に発生、年度は「2001年」と「2011年」。偶然の一致とは思えない因縁を感じました。  2007年に活動の拠点を東京に移すまで、私は20年にわたりニューヨークで生活していました。夫と日本の大学を卒業した子供達は、今、ニューヨークにいます。多くの友人がニューヨークないしアメリカにいます。地震直後から、次々とメールが届きました。 震源地の東北と東京の位置関係がわからないことも一因だったのでしょうが、 とりわけアメリカ人達が私の安否を気遣ってくれました。ほんとうに心強かった。 福島の原子力発電所の事故の模様が報道されると、親身だった友人は、なぜ日本に留まっているのか、一刻も早くアメリカに帰ってらっしゃい、何か問題があるのか、お金がないのなら自分が飛行機代を払う、何でもする、とまで言ってくれました。地震直後の日本の状況はそこまで深刻に見えていたのでしょう。
 でも、私には、日本を離れる意志は、全くありませんでした。ニューヨークにも自宅があるからといって、教え子を残して日本から逃げ出すことはできない。
たとえ一人でも私を頼ってくれる人がいる限り、その存在をないがしろにはできない。踊りの指導は単に技術を教えるものではなく、人間としての私の生き方をも伝える手段です。そこには、パーソナルなコミュニケーションが介在します。生徒が自分の許にいる限り、私には教え続ける責任があるのです。

その2 ニューヨーク〜2001年「9月11日」ドキュメント

------2001年9月11日8時46分、テロ組織アルカイーダのメンバーに乗っ取られたアメリカン航空の旅客機が、世界貿易センタービル(北棟)、すなわちニューヨークのダウンタウンに位置する金融街ウォール・ストリートのランドマークに突入。9時3分には同ビル南棟にユナイテッド航空の旅客機が突入。9時59分には南棟が、10時28分には北棟が崩壊し、旅客機の乗客およびビル内外の市民、救助にあたっていた消防士、警察官等、2700余名の命が失われた。首都ワシントンD.C.とその近郊でも2機の旅客機が墜落、多くの犠牲者を出した。「セプテンバー・イレブン」こと、アメリカ国内で起こされた、前例のない大規模な「同時多発テロ」である。
 3月11日の9時頃、三番街に面した自宅近くの家電店に出かけました。テレビを買い替えるために、それまで使っていたテレビを友人に譲ったところだったのです。店頭のテレビに映し出されていたのは、まさしく旅客機が激突した貿易センタービルのライブ映像。映画の一場面かと思っていたら、ニュース画面に切り換わり、この光景が現実であることを初めて知りました。直ぐには事件の全貌を把握できなかったのですが、信じ難い事件が、ここ、ニューヨークで起きているのだ、という衝撃を受けました。時間が経ち、事件の重大さが明らかになるにつれ、今後への不安が徐々に大きくなっていきました。
 テレビの配達は大幅に遅れるだろうと店員が言うので、小型テレビの在庫品を購入し、持ち帰りました。9時30分頃だったでしょうか。自宅が面している3番街の様子は一変していました。ふだんから賑やかなアベニューの歩道が、アップタウン(北)に向かって歩く人達で埋め尽くされていた。無数の人々が大きな波のようになって、ひたすらアップタウンに向かっていた。ところが、歩道から溢れそうな人ごみなのに、誰もが無言で、奇妙なほど静まり返っている。恐ろしい光景でした。
 アップタウンに向かう人達のうねりに逆流するようにして自宅に戻ると、留守番電話に子供達の学校からのメッセージが残されていた。その日の授業は打ち切りになった、至急、迎えに来るようにとの連絡でした。当時、13歳の娘と12歳の息子は、「Grace Church School」に通っていました。幼稚園から中学までの一貫教育の私立学校で、場所 は4番街と11丁目、自宅から約6キロ、マンハッタン島の南端近くの貿易センタービルからは3キロも離れていない、ダウンタウンの一角です。ニューヨークでは、ふだんから子供を送り迎えすることが一般的で、テロ直後に子供だけで帰宅させることは考えられません。主人が、即、学校に向かいました。間もなく、学校からほど近いソーホー(グレース・チャーチ・スクールと貿易センターの中間にあるエリア)に住んでいる息子の同級生の親御さんから電話が入りました。アップタウンに住んでいる私達が学校に到着するまで時間がかかるので、息子をいったん預かってくださっていた。続いて息子が電話に出てきて、今夜は友人宅に泊まりたい、着替えを持って来て欲しいと言うのです。前後して、夫から連絡がありました。娘と一緒にいるが、地下鉄もバスも止まっているので、迎えに来てくれないか。
 私は自宅を車で出ました。ところが、ダウンタウンへの車の通行は遮断されていた。Uターンして自宅に戻りたかったけれど、59丁目で交通整理をしていた警官が強圧的に言いました。「全車両はこの交差点で左折し、対岸のクイーンズに出なくてはいけない。指示に従わなければ逮捕する」仕方なくそこからクイーンズボロ橋を渡り、クイーンズに向かいました。 この橋を渡ったら戻れないだろうと覚悟して、ゆっくりと車を進めました。横目でマンハッタンのほうを見ると、炎上し、黒煙をあげている貿易センタービルが見えた。テレビ画面を通して見ていた事件が生々しい現実になって迫ってきたようで、急に悲しみが込み上げてきました。
 クイーンズに渡った私は、情報に振り回されました。ニューヨークは、マンハッタン島とも呼ばれる通り、イースト川とハドソン川に挟まれた細長い島です。マンハッタンに戻るには、橋またはトンネルを通らなくてはなりません。とある橋なりトンネルなりからマンハッタンに戻れる、とタクシーのドライバーから伝え聞いてそこに向かうと、その場所は閉鎖されている。また違う情報を耳にして違う場所に向かうと、そこもまた閉鎖されている。トイレに行くこともままならず、通りかかったガソリンスタンドでようやくトイレを使わせてもらう等、我慢の連続でした。  携帯電話は通じていたので、夫と娘は2、3時間かけて徒歩で無事に帰宅した、と知らされました。私も車を乗り捨てて歩いて家に戻る決心をしたものの、その日の午後には車だけでなく、歩行者もマンハッタンへの出入りができなくなっていた。私は自宅にいたのに、帰宅難民になってしまった訳です。非常時には外出すべきでない、とつくづく思いました。クイーンズに隣接するブルックリンの友人に連絡がつき、彼女の家に泊めてもらうことができた。友人宅に着いた時の安堵感といったら…。土地勘のない、治安のよくない場所で野宿をせずに済んだのですから。

9月12日〜ニューヨークから人影が消えた。

 翌日の午後、貿易センタービル周辺以外の地下鉄の運行が再開されたので、私は車を友人宅に残し、地下鉄を乗り継いでようやく自宅に戻りました。自宅の窓から、ふと外を見た時のことは、今でも忘れられません。窓の外には、昨日までとは全く違う風景が広がっていました。空は晴れ渡っているのに、不穏な予感のような、異様な空気が漂っていた。
今にも爆弾が落ちてくるのではないか、と感じた程です。いつもは人通りの多い街路から人影が消え、静まりかえっている。車も通っていない。住み慣れた場所が、まったく違う空間になっていました。
 テロからの数日間、物流は完全にストップし、スーパーの店頭から野菜や牛乳、肉が消えてしまった。長年、ニューヨークに住んでいたけれど、そんな経験は初めてでした。買い置きの食料があったとはいえ、いつ、生鮮食料品がニューヨークに入ってくるのか分らず、不安が募りました。水、トイレットペーパー、缶詰等、前日までは簡単に手に入っていた品々を買うために奔走したものです。
 グラウンド・ゼロ(貿易センターが建っていた敷地)に近いエリアに住んでいた人達は、さらに不安で不便な日々をおくっていたそうです。商店もオフィスもクローズし、お まけに室内が真っ白になってしまうほどの白い埃が、貿易センタービルから漂い続けた。風向きが変わった拍子に、8キロ以上離れた私の家にも埃は流れてきました。ビルの建材や飛行機の燃えカス、もしかすると犠牲者の遺灰がまじっているかもしれない埃…。ざらざらとした感触の、灰のような粉でした。  14丁目以南のダウンタウンは、住人以外の民間人の出入りは制限されました。夫はこの地域で スーパーマーケット、パン屋、レストランを経営していましたが、一時休業し、店で扱っていた食べ物や飲物を、ダウンタウンで被災した人達に無料で配布していました。主人のビジネスの根底には困っている人を助けるという考えがあるので、彼にとって、当然、やるべきことをやったのだと思います。
 テロ攻撃の直接の被害を受けたのは貿易センタービルの一帯だけだったとはいえ、ほんとうに多くの人達の生活に影を落としました。幸い、子供達も夫も私も、PTSD(ストレス傷害)になりませんでしたし、直接の友人を失うこともありませんでした。でも、知り合いの知り合いとなると、いったい何人が命を落とし、 傷ついたのか。私の友人の友人は、銀行員のご主人を亡くしました。そのお子さんが、その後、亡き父親と遺された母親を安心させるかのように猛勉強してアイビーリーグ(名門大学)に入学したと聞いた時は、とても嬉しかったです。

テロ後に感じたアメリカ人の強さ

 いつ再び、テロが起きるかもしれないという、漫然とした恐怖感を感じる一方で、アメリカ人の強さを目の当たりにしました。9月11日を境に、至る所にアメリカ国旗が掲げられるようになりました。個人の家や車、商店だけでなく、バスや地下鉄、タクシー、学校、オフィス、劇場等の公共の場にも国旗が掲げられた。彼らにとっての星条旗は、愛国心とテロに屈しない魂、 困難に挫けない強さの象徴です。消防署や警察署には殉職者を悼むコーナーが設けられ、無数の花が手向けられた。犠牲者を悼むだけでなく、他者のために立ち上がり犠牲になった人達の勇気を讃える心の強さを感じました。
 テロを決して風化させない意志の強さにも感銘を受けました。今年2011年は10年の節目で記念公園がオープンしたこともあって、その思いがさらに強くなったようです。9月 11日にグラウンド・ゼロで行なわれる追悼式典は、例年、テレビでライブ中継されます。アメリカ大統領やニューヨーク市長といったVIPが参列し、スピーチをしますが、このセレモニーの本当の主役は、世界中から集まる犠牲者の遺族達。彼らが犠牲者の一人ひとりの名前を読み上げて犠牲者に思いを馳せ、テロの痛みと記憶を分かち合うことが、セレモニーのもっとも重要な部分なのだと思います。同時多発テロは今後も語り継がれ、決して風化することはないでしょう。
 私達は溢れるように豊かな物に囲まれた生活を営んでいました。けれども、物質的、経済的な豊かさや利便性を当然のものと受け止め、精神的な向上心を二の次にしていたのではないか。「3月11日」と「9月11日」の両方を経験したことは、自分の生き方の原点を考え直す契機となりました。人間は何のために生きているのか。本当に豊かな生活とは何か。心の在り方こそが大事なのだと、改めて考えさせられました。

その3 「9月11日」を経て振付家としての自分を再確認する

 テロが起きた2001年から数年間は、 振付家としての自分を再確認する時間になりました。テロの3ヶ月前に父が他界したこともあって、その後しばらく、母の舞踊学園の発表会での活動等、限られた仕事しかしていません。ところが、2005年に本格的な活動を再スタートした時、「生きる」ということが自分の創作の原点にあるのだと痛感しました。生きる----。いま、自分が生きていることの意味は何なのか。漫然と生かされているのではない。まぎれもなく自分の意思で生きることだと思います。そして、いま、自分が生きている場所は何処なのか。大きくとらえれば地球、小さくとらえれば、日本に住んでいる自分の姿を見つめることになる。2001年以前に既に地球温暖化を意識した作品を作っていますが、「9月11日」を経て、「生きる」というテーマにさらに踏み込んでいきました。といっても、意図的に「生きる」というテーマを選んでいるのではありません。作品を構想し、練り上げていると、やがて、「生きる」ことの意味を自分に問いかけている。どうしても、「生きる」という問題に向き合ってしまう。いつ何時、予想だにしなかった何かが起こり、人生の根底が揺るぎかねない。明日という日はない、という気持ちで、つねに一所懸命生きていきたい。成功し、名声を得る、という意味ではありません。人間らしく喜怒哀楽、悲喜こもごもを味わうことに、生きることの真髄があるのだと感じています。
 「コミュニケーション」というテーマが、私の創作のもう一つの原動力になっていることにも気づかされました。人間が生きていくうえで必要不可欠なコミュニケーションが、いま、だんだんと希薄になっている。普通の家庭で育った普通の子供達であっても、私の子供時代とはコミュニケーションの取り方が、まったく違っている。人間が追求してきた利便性が影響していると思います。たとえばコンピュ―タ―、携帯電話、ゲーム機が常に身近にあり、 隣りに友達がいても言葉を交わすわけではなく、各自、ゲームに耽る。 自分を閉ざし、他者とうまく話せない子供がいる。 友人の作り方を勉強しないとならない子供がいる。友人は勉強して得るものではありません。 バーチャルな世界でしか生きられない子供がいるのではないか、と不安になってしまいます。 少子化のため、親が子供に介入し過ぎるきらいがあるかもしれない。就活、婚活にまで親が関与する例があるそうです。
 いま、この時、この年齢でしかできないことがあるはずです。リアルな世界でできる事を何でもやってこそ、コミュニケーションが成立する。上手、下手なんて関係ない。も っと気楽にのびのびとコミュニケーションを構築していけば、一度しかない人生を豊かに生きていけるのではないでしょうか。
 私が指摘するまでもない、周知の事実かもしれません。でも、このコミュニケーションの大切さを、作品を通して訴えていくことこそが、振付家として自分にできることであ り、果たすべき使命だと強く感じています。

その4 東京〜「3月11日」を経て新作を発表する

 「3月11日」から7ヶ月を経た今、「9月11日」とはまた違った思いを抱いています。9月11日のテロによって、数多くの人達が大切な人を失い、苦しみました。けれども、3月11日ではさらに広範な地域が被災し、さらに多くの命が失われた。家を流され、職を失い、生きることの危機に直面している。いつ収束するのか、未だにわからない原子力発電所の事故が、生活の根幹に影響を与え続けている。犠牲になった人達、被災した人達のために、振付家として何ができるのか、何をすべきなのか、痛切に考えずにはいられません。
ボランティアとして現地におもむく、あるいは救援物資をおくる、といった選択肢もあります。実際、劇場で有志の人達と募金活動をしたこともあります。けれども、今、振付家として、自分だからできることをやるべきではないか、という思いに駆られています。  今年7月の「現代舞踊展」で『here and after』という小品を発表しました。東日本大震災によって亡くなられた方の御霊に捧げる、日本の復興を祈る作品です。希望、母なる自然、といったイメージを見出された方がいらしたようです。11月10日の田中いづみダンス公演では、『here and after』をベースに練り上げた『そして今、』を草月ホールで上演します。3月11日以来、初のフルイブニングの作品です。この作品を被災地で上演する訳ではない。直接、被災された人達に何かを届ける訳ではない。でも、振付家としての思いを表現することが、いま、何よりも大切ではないか。いま一度、震災で亡くなられた方の御霊に祈りを捧げ、日本の復興と明るい未来を祈念しつつ、心を込めて踊ります。

Interview and text by Sako Ueno 上野房子

上野房子プロフィール

ダンス批評家
共同通信、音楽新聞他に寄稿
翻訳書にヴァレリー グリーグ著「インサイドバレエテクニック 正しいレッスンとテクニックの向上」
明治大学・明治学院大学非常勤講師
目下、スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」の翻訳の仕上げに邁進している。