"Fullness" 田中いづみ という生き方
東京〜ニューヨーク に生きる ----- ダンサー、振付家、女性、妻、母、人として

「田中いづみ連続ロングインタヴュー」by上野房子

第4回 舞踊コンクール出場と入賞 ----- ダンサーとしてさらなる成長の契機をつかむ

コンクールだから可能な、凝縮された経験

 初めて舞踊コンクールに出場したのは、大学卒業後のことでした。母親が主宰している〈石川須妹子舞踊学園〉(2013年に、現在の名称〈石川須妹子・田中いづみダンスアカデミー〉に改める)のメンバーが埼玉全国舞踊コンクールに出ることになり、それなら私もという気持ちになって、1979年にこのコンクールのシニア部門に応募しました。抽選の結果、出場番号は1番でした。全出場者の一番手は点数が伸び難く、コンクールでは不利だと言われていますが、1〜3位に継ぐ「読売新聞社賞」を頂き、初めてのコンクール参加で受賞はとても嬉しく、励みになりました。翌年、再挑戦し、第1位県知事賞・橘秋子賞を授与されました。

 1位を受賞した際は、母親の作品『狐火』を踊りました。 日本的な音楽を使った、どこか妖しい雰囲気のある作品でした。衣装は淡いブルーグレーの総タイツで、アクセントに手描きの赤いラインが入ったデザインでした。日頃、母の稽古を受ける機会はあまりなかったのですが、コンクールの時は直接、指導を受けました。技術的に踊りこなせるのが前提で、内面の表現にこだわる、厳しい指導でした。柔らかい物腰で踊っていたかと思うと、急に鋭さを見せる。メリハリのある踊りを要求されました。

 1981年に、東京新聞の全国舞踊コンクールに初出場しました。最難関と言われているコンクールです。初回から予選は通りましたが、1984年に自作の「しとどの雨」で入賞、1985年に『内なる襞』で二位になりました。

 私は身長166センチです。今の若手には長身者がたくさんいますが、同世代のダンサーのなかでは、背が高いほうかと思います。どちらかというと柔軟性を生かした踊りが得意で、両脚を180度以上に開き、後ろ側の膝を曲げて爪先が頭に触れるジャンプは、私のトレードマークでした。若い時は、長身なので力強さやスピードが足りないと言われることが多かったので、体の芯を強くし、体の中心から動き、引き上げることを心がけた結果、ある程度の年齢になってから、強さが前面に出てきたように思います。

 誰かに指示をされて、特別なトレーニングをした訳ではなく、他人の作品を踊る際も、言われた通りに受け身で踊る、という取り組み方はしませんでした。作品を自分のものにし、解釈し、その作品のなかでどう生きるのか、自分をどう活かすのか。自分ならではの踊り方を模索することに、やり甲斐を感じていました。振付家の考え方を理解し、他のダンサー達の動きも意識し、そのうえで振付家の意図に沿って工夫し、より良く踊る努力をすることは、踊り手の責任です。与えられた振付を踊ることに専念していると、表現も視野も狭まってしまうのではないでしょうか。

コンクールは人を育てる

 踊りという芸術は、どれほど一生懸命に努力を続けても、目に見える結果が出ることはほとんどありません。公演評を書いていただいたとしても、その批評家の観点で舞台を受け止めたものであって、自分で納得できる評価が下されるとは限りません。コンクールの場合は、順位という明確な結果が出され、それを受け入れなくてはいけない。コンクールは、今、その時に、自分が向かっていくべき目標になるのです。人を育てる好機になると思います。

 コンクールに出場する目的は、密度の高い練習を重ねることにあって、賞は後からついでくる副産物のようなものです。ひとつの公演にダンサーとして出演する場合よりもさらに綿密に稽古を重ね、振付を磨き上げ、コンクールに臨みます。そのプロセスを通して、私自身、自分が成長していく手応えを感じました。

 残念ながら、コンクールには弊害もあると思います。 コンクールとは自分を磨くための手段であって、コンクールが全てではないということを理解していないと、受賞を機に燃え尽きる危険があるとも思います。実際、そういう人を沢山、目にしています。高度なテクニックを駆使した、高得点を取りやすい踊りで、コンクールで受賞するための踊りだけに固執するのは、本末転倒です。本来、踊りは、もっと自由なものです。ダンサーは、芸術家として自分を磨いて行く長い道程を歩んでいかなくてはなりません。素質に恵まれた人が、コンクールで賞を取ったのを機に踊りをやめてしまうなんて、ほんとうに残念なことです。コンクールで賞を取れたら、そこからがスタートだと思います。

 入賞するために必要な要素のひとつに、粘り強さがあると思います。私がコンクールに出ていた当時、決戦出場者の大半は、現代舞踊協会の新人公演に出る等、様々な場で活動をしている人達でした。再出場すれば、前回出場時から成長した自分を見せることができます。審査員もその努力を評価してくれるように感じました。

 コンクールでは、クラシック・バレエのように規範のテクニックを正確に踊る、ということは求められません。しかしながら、モダンのコンクールでも、人を魅了する踊りにはテクニックが必須です。といっても、テクニックを羅列するだけでは、評価を得られません。テクニックを生かした作品を如何に表現し、人に訴える物があるか、という事があってこそ、点が付いていくと思います。空気を抑えるという言い方がある通り、上位入賞者は、空気感が違います。存在感が違います。作品を通して、何を伝えるのか。どう伝えるのか。テクニックを超えたレベルで評価を得ます。

“日比谷”に行く

 私がコンクールに出ていた頃は、「日比谷に行く」という、仲間内の言い回しがありました。東京新聞コンクールの予選会場は目黒公会堂で、決戦は日比谷公会堂で行なわれるので、日比谷公会堂の舞台に立てるのは、決勝進出者だけなのです。

 コンクールに限らず、舞台に出る前、私はとても緊張します。今はだいぶ図太くなったので、舞台に出たら冷静になれますが、コンクールに出始めた頃は、緊張のあまり手に汗を握っていました。ただ、その緊張感が良い方向に働くことはありました。本番で脚を上げた時、ふだん以上の高さでキープできる。ふだん出来ないことが出来てしまうのは、緊張した結果、作品のなかに入り込み、集中力が高まるからなのでしょう。経験を経て、緊張感を良い方向に持っていけるようになりました。

 83年に一度だけ、“日比谷に行く”ことができませんでした。まったく緊張しないで、ふらーっと舞台にでてしまったような記憶があります。実は、自分の稽古と平行して、コンクールに出場する同じスタジオの男性ダンサーの振付・指導もしていました。彼は予選を通過したのに、私は落選。 当初は信じられないほどにショックを受けましたが、こういう経験も必要なのだと思えるようになりました。自分のなかに、奢りのような気持ちが芽生えていたのかもしれません。予選落ちを経験して、悔しい気持ちをバネに初心に戻りました。

 1985年の東京新聞コンクールで二位になった後、文化庁の芸術家在外研修員に選ばれてニューヨークに行きました。この時が、最後のコンクール出場です。研修から帰国後コンクールに出るというのは、当時は考えられませんでした。1979年から1985年までの7年間という短いコンクール期間ではありましたが、実のある時期だったと思います。

 うちのスタジオでは、通常、コンクールの3カ月前から指導を始めます。準備期間は、短いほうだと思います。コンクールの出場準備に半年、一年と長い時間をかけることに、私は賛成できません。それだけ長い時間をかければ、その作品を上手く踊れる様になることは間違いありません。でも子供の場合、半年、一年も過ぎると、心も体も成長します。一人ひとりの成長に合わせた踊りを踊ってもらいたい、と思います。一つの作品を練り上げる利点もあるでしょうが、長い目で見ると、色々な経験をして成長することも大切ではないでしょうか。

 最近は、現代舞踊協会の選抜新人公演のオーディションに関わる機会があります。なかの国際ダンスコンペティション他の審査もしたことがあります。コンクールに出ている子供は、目の輝きが違います。一つのことに集中し、密度の濃い日々を過ごした成果なのだと思います。出場者達は、公演の本舞台とはまた違った緊張感を持つことでしょう。与えられた数分に満たない時間のなかで、地明かりだけの舞台で踊る。テクニックの優劣を競うのではない。その人そのものがあらわになる。演出でごまかすことはできません。 小さい時にこのような経験をしていると、粘り強さが身につく。ダンサーとしてだけでなく、一人の人間として生きていくための、素晴らしい糧になると思います。



Interview and text by Sako Ueno 上野房子

上野房子プロフィール

ダンス批評家
共同通信、音楽新聞他に寄稿
翻訳書にヴァレリー グリーグ著「インサイドバレエテクニック 正しいレッスンとテクニックの向上」
明治大学・明治学院大学非常勤講師
目下、スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」の翻訳の仕上げに邁進している。