"Fullness" 田中いづみ という生き方
東京〜ニューヨーク に生きる ----- ダンサー、振付家、女性、妻、母、人として

「田中いづみ連続ロングインタヴュー」by上野房子

第10回 田中いづみが見たコロナ禍のニューヨークの〈今〉

[本編は、2021年4月にインタビューを実施、2020年12月から2021年2月にかけて田中が見たニューヨークの〈今〉をレポートしたものです]

Contents
1. 11ヶ月ぶりにニューヨークに向かう
2.ニューヨークの国際空港で肩すかしを食らう
3.ニューヨーク出発から日本帰国まで
4.ニューヨークのPCR検査事情
5.様変わりした日常・・・半数の店舗が休業
6.ニューヨークの空洞化と治安の悪化を身をもって体験
7.ニューヨークからダンサーが去っていった
8.コロナ禍の中で踊りの原点を見つめる

11ヶ月ぶりにニューヨークに向かう

 2020年12月下旬、田中いづみはニューヨークに向かった。彼の地で暮らす家族と再会し、年末年始をともに過ごすだけでなく、ニューヨークで済ませなくてはならない所用があった。
 懸念材料は、新型コロナウイルス感染症である。12月下旬の時点で、人口1400万人弱の東京都で1日あたり600人前後の新規養成者が確認され、累計陽性者数は5万人に迫り、感染の急増が懸念される〈レベル3〉の段階にあった。人口1930万人のニューヨーク州の同時期の累計陽性者数は85万人。人口830万人超のニューヨーク市での1日あたりの新規陽性者は3700人を超え、年明けには6000人にまで増加した。
「日々、情勢が変化していました。東京を出発する直前まで、連日、官公庁などのホームページに目を通しました。日本の厚生労働省、外務省、在日アメリカ大使館、ニューヨーク州政府、米国疾病対策予防センター(CDC)、ニューヨークの日本国総領事館。ニューヨークの知人にも連絡を入れました。米国に入国するにあたり、日本出発から72時間以内に受けたPCR検査の陰性証明書を取得していないと入国を拒否されるという情報もありましたので、新宿の国立国際医療研究センター病院で検査を受けました。出発2日前に検査、翌日に結果を受け取りに行くつもりが、その日は予約が満員だったため、やむなく出発前日の朝一番に検査、午後に検査結果を受け取りました。費用は30,000円弱でした」
 慌ただしく準備を整え、クリスマス直前の繁忙期であるにもかかわらず閑散とした羽田空港で、日本航空のニューヨーク直行便に搭乗した。

[羽田空港の閑散とした出発ロビー]

 機内の様子も様変わりしていた。 「日本を出発する時、発熱などの症状がある場合は飛行機に搭乗できないと掲示されていましたが、陰性証明の提示は求められません。そこが懸念材料ではありましたけれど、機内は本当にガラガラで、密になる心配はありませんでした。貯まっていたマイルを特典航空券に交換し、ビジネスクラスで往復しました。行きの便のビジネスクラスの乗客は、私を含めて4人。東京に戻るときは、予約していた便が大雪のために2日連続で欠航になり、3日ぶりの便に振り替えられました。乗客は、ビジネスクラスもエコノミークラスも14人ずつ。コロナ禍の最中のフライトとしては、混雑していたそうです。乗客は、食事をする時以外はマスクを着け、キャビン・アテンダント(CA)も全員マスク着用。機内がしっかりと消毒されていて、トイレには消毒液が完備されていましたから、安心感はありました。機内の空気は外気を取り入れながら循環させるのでウィルスが滞留することはない、とも聞いていました。念のためトイレから出るときは、いったん開けたドアを足で抑えておいて、手指を消毒してから、ドアの取っ手に触れずにトイレから出る、という工夫はしましたけれど」
 ニューヨークまでの所要時間はおよそ14時間。空の旅の楽しみの一つである機内食にも、コロナ禍の影響が現れていた。
「ビジネスクラスでは、前菜を一人一人にお皿でサービスしてから、メインの料理が出されます。今回は、CAが食器類に手で触れることはありませんでした。個別包装のまま温めたパンや、カバー付きの容器に入れた前菜やバター、チーズをトレーに乗せて客席を巡り、乗客が自分の手で各自の分を取る、というスタイルでした。メインディッシュは今までのようにお皿に盛り付けられていましたが、飛沫防止のカバー付き。免税品は、商品を載せたカートをCAが押して通路を行き来しながら販売するのではなく、乗客がオーダーしたものだけが座席に届けられました」

[個別包装されたパンやカバーをかけたバターが供された機内食]

ニューヨークのJFK国際空港で肩すかしを食らう

ウィルスとの闘いのメインイベントは、ニューヨークの空の玄関であるジョン・F・ケネディ国際空港(JFK空港)着陸後に始まった。JFK空港構内での感染症対策が万全でない場合に備えて、田中は、ポケットに手指用の消毒液とビニール手袋、手荷物や手荷物を載せるカートのハンドルにスプレーできる消毒薬をしのばせ、使用済みの手袋を入れるゴミ袋をも用意し、不測の事態を防ぐ対策まで講じていた。ところが、JFK空港の水際対策に肩すかしを食らうことになった。
「入国審査を受け、預けていた荷物を受け取った後、CDCのカウンターで米国内での連絡先を申告します。必要事項を記入した所定の用紙を提出してもよいのですが、私は事前にスマホを使ってweb登録をしておきました。CDCのスタッフに登録証を表示したスマホの画面を見せたところ、係員は一瞥しただけ。東京で準備してきたPCRの陰性証明証は提示すら求められないまま、到着ロビーに出ました」
 水際対策らしきチェックを受けないまま“自由放免”となり、空港からの移動手段にも格段の制限はなかった*。

* その後、CDCの水際対策は強化され、2021年1月26日以降、出発前3日以内に行った検査で取得した新型コロナ陰性証明書の提示を義務化した。2021年11月8日以降は、陰性証明書に加えて、ワクチン接種完了証明書の提示が必須となった。2021年11月26日には、新たな変異種「オミクロン株」の確認を受けて、アメリカ政府は一部の国に対し入国制限を行うと発表し、情勢は流動的になっている。

「入国者用の交通手段が準備されていたわけではなく、公共交通機関を使うなり何なり、自由に帰宅できました。だからといって、いつものようにタクシーに乗ろうとは思っていませんでした。自分の前に誰が乗ったのか分からないし、車内の消毒が不十分かもしれません。今回は夫に頼まれた大きな荷物を抱えていたので、娘が車で空港まで迎えにきてくれました。かれこれ11ヶ月ぶりの再会でしたが、お互い二重にマスクをしたまま、ハグはしないで、自宅に直行しました」
 ほぼフリーパスでJFK空港を後にしたため、マンハッタンの自宅でもうひと仕事しなくてはならなかった。
「いつ、どこで、何をするべきなのか、分からないまま自宅に戻りました。入国者対策は、日々、変化していたので、自分で調べてみたところ、入国の3〜5日の間にPCR検査を受けなくてはならないことが分かりました。街中の検査所〈PCRセンター〉に行けば、無料で、何回でも検査を受けられますが、どこも長蛇の列。さらに調べて、自宅近くのかかりつけ医のオフィスで4日目に検査を受けました。その5日後に電話連絡があり、陰性だったことを確認できました。週末をは挟んだため、通常より少し日数がかかったようです。
 入国後に判明したことが、もう一つあります。検疫所から所在を確認する電話が入り、もしもその電話に出ないと2000ドルの罰金が課せられ、検疫官が自宅を訪問する場合もあるそうです。連絡先には固定電話を登録していたので、慌てて電話機をチェックしたら、なんと、繋がっていなかった! 普段は固定電話を使うことがないので、気付きませんでした。息子が回線を繋ぎ直してから4、5日後だったでしょうか、留守番電話に検疫所からのメッセージが残っていました。自動音声なので途中で受話器を取っても、相手と話すことはできません。この番号から電話がかかって来たら応答する、またはかけ直すようにと指示されているのですが、電話番号の末尾が録音されていないため、コールバックをしようにも、番号が分かりません。その後も電話が入りましたが、結局、一度も受話器を取ることができませんでした。念のため、何月何日何時の時点で自宅にいたことを証明できるように、テレビ画面などを背景に入れた写真を撮っておきました。ともかく2週間、子供達が手配したデリバリーや食材で食事を摂りながら、じっと自宅に待機していました」

ニューヨーク出発から日本帰国まで

[帰途、JFK空港の出発ロビーも閑散としていた]

参考までに、ニューヨークでの所用を終えた田中が、東京に戻る際の足取りを記しておく。
「ニューヨーク出発から72時間以内に、鼻の粘膜を綿棒で採取する〈鼻咽腔スワブ〉タイプのPCR検査を受け、陰性証明書を所持していなくては、日本には入国できません。証明書を発行できるクリニックは土日が休業で、なおかつ、通常は証明書発行まで2日かかるので、火曜に出発するフライトだと証明書を取ることが出来ません。ニューヨークで主流の唾液を使った検査ならPCRセンターでいつでも検査できますが、鼻咽喉スワブの検査の証明書をそのクリニックで手配するとなると、72時間のタイムリミットをオーバーしてしまう。ニューヨークの隣にあるニュージャージー州のクリニックで受けることも一時は考えましたが、フライトを木曜に遅らせました。結局、そのフライトは大雪でキャンセルされてしまいましたが、陰性証明書は無事に手に入れることができました。羽田空港で飛行機を降りてからは、4、5箇所で証明書の提示を求められました」
 新型コロナウィルスの変異株に対する対策の厳しさも、田中には印象的だった。
「私が帰国した2021年2月21日の時点では、イギリス、南アフリカ、ブラジルなど、変異ウイルスの感染者が確認された国やイスラエル、アイルランドからの入国者は他の乗客とは違うルートに進み、別個にPCR検査を受けていました。検査の結果が陰性であっても、指定の宿泊施設で何日か隔離されます。他の国からの乗客も、全員、PCR検査を受け、結果が出るまで3時間ほど空港内で待機します。陰性であれば帰宅できるけれど、公共交通機関は使えません。私は1時間30分で出ることができましたので、迎えを頼んでいた弟を待つことになりました。時期によっては、検疫官が入国者に同行し、タクシーや電車、バスに乗らないように目を光らせていたそうです。自宅待機中の注意事項を記載した書類を渡され、それに従う旨の誓約書を提出しました。帰国から2週間の間は、不要不急の外出を避け、自宅待機をすることになっています。一人暮らしの人であれば、単独で最低限の外食はしても良いけれど、公共交通機関を使って出かけてはいけない、と明記されていました。自宅待機中は、毎日、厚生労働省の〈帰国者フォローアップ〉から〈LINE〉のアプリを使った問診票が送られ、発熱の有無など、自分の健康状態を報告しました」

[羽田空港の検疫所で受け取った書類]

ニューヨークのPCR検査事情

 新型コロナウィルスの感染者数が日本とは桁違いに多いニューヨークではあるが、PCR検査を感染予防策の切り札にしているため、ニューヨーカーは症状の有無に関係なく、何度でも無料で検査を受けられる。田中もニューヨークで合計で4回のPCR検査を受けた。時間の余裕があり、予約を取ることができれば、無料でワクチンの接種を受けることも可能だった。
 ただし無料なのはPCR検査とワクチンだけで、仮に治療が必要になった場合の自己負担額は、加入している医療保険の種別によるが、また、後日、コロナウィルス感染症関連の医療費を免除する措置が取られるようにもなったが、しばしばきわめて高額になる。日本の国民健康保険に相当する公的な医療保険制度がないため、無保険者も少なくない。
 なお、日本では新型コロナウイルス感染症は〈指定感染症〉に指定されているため、入院した際の医療費は公費負担である。
「幸い、家族はコロナに感染していません。私が直接知っている友人も、誰も感染していません。でもその人の家族や職場の同僚には、誰かしら感染者がいて、ウィルスが直ぐそこまで迫ってきていることを実感しました。実際、私がNYに着いた数日前には、娘の仕事場の若いスタッフ2名が感染したため、娘も即座にPCR検査を受け、陰性であることを確認していました。私の娘はレストランやフードコートを経営する、いわゆる〈エッセンシャル・ワーカー〉なので、頻繁にPCR検査を受けています。そのスタッフは大事には至らず、私の自宅待機が終わる頃には、仕事に復帰していました」
 ニューヨークに戻った数日後のクリスマス・イブ、田中は自宅で家族および、ごく親しい友人をまじえて、食卓を囲んだ。正月にも同じメンバーで集ったという。Facebookにアップロードされた、丹精込めた数々の料理の写真が、田中の名シェフぶりをうかがわせる。食事会の出席者は、全員、事前のPCR検査で陰性であることを確認済みだった。

[壮観! 田中が腕をふるったお節料理]

PCR検査をしていると、安心感が違います。夫も娘も息子もその友人たちも、検査で陰性だったから、顔を合わせることができました。実はコロナ禍の影響で、かえって二人の子供と一緒に過ごす時間が増えました。二人とも独立していますし、それぞれ仕事をしていますから、自分たちのサイクルで生活を楽しんでいました。でも当時、屋内のレストランはすべて休業し、映画館も劇場*も閉鎖中。時間の余裕ができ、娘も息子も、自然と私のところに来るようになりました。週に一、二回は顔を合わせ、色々な話をすることができました。とはいえ、誰とでも顔を合わせていたわけではありません。互いの家を行き来していた友人が室内で会うのは心配だといって、延々と屋外を散歩したこともあります。良くも悪くも、コロナはニューヨークでの人間関係を変化させました」
* ニューヨークでは2020年12月に始まったワクチン接種が猛スピードで進み、平行して感染状況も改善したため、映画館は2021年3月末に入場者数を定員の25%に制限して営業を再開、5月に地下鉄が24時間の運行に戻り、7月には飲食店や映画館の入場制限が撤廃され、9月にはブロードウェイを始めとする劇場が入場制限なしで公演を再開(ワクチン接種証明書または開演72時間以内に受けた検査による陰性証明書の掲示、および、マスク着用は必須)する等、種々の規制が解除されつつある。



上:滞在中の田中は、毎週、田中宅にホームステイしたコア(子息の愛犬)のドッグシッターにいそしんだ。
セントラル・パークはコア君お気に入りの散歩コース。
下:イースト・リバーに浮かぶルーズベルト島で友人と延々と散歩をした際に撮影した1枚。
対岸のマンハッタンに国際連合本部(薄緑色のビル)を臨む。

様変わりした日常・・・半数の店舗が休業

「スーパーマーケットは営業していますから、日常生活に必要なものは手に入ります。消毒液などの衛生用品も十分に出回っています。辛かったのは、店内への入場者数の制限が厳密で、どの店でもかなり待たされたこと。行列をしている時も店内で買い物をしている時も、ソーシャルディスタンスを取らなくてはなりません。レストランは、テイクアウトと、歩道にテーブルと椅子を並べた〈アウトドア・ダイニング〉の営業は認められています。仮設の仕切りや屋根をつけた、本格的なアウドドア・ダイニングもありました。  ニューヨークの人たちは外食が好きで、生活の一部になっているほどです。2020年3月からずっとロックダウンが続いていますから、どんなに寒くても、たとえアウトドアでも、気晴らしをしたくなる。わたしも何度か友人と食事をしました。寒空の下で、ダウンコートを着込んで。でも営業していない店が多い。臨時休業なのか撤退してまったのかは分かりませんが、自宅の近所で営業していたのは2軒に1軒前後でした」



上:ニューヨーカーの数少ない憩いの場となったアウトドア・ダイニング。
下:ミッドタウンのビジネス街は、ほぼ無人。

ニューヨークの空洞化と治安の悪化を身をもって体験

 刺激に満ちた賑やかな街から雑踏が消えてしまうことを、誰が想像していただろうか。田中の言葉から浮かび上がるニューヨークの様子は、SF映画の一コマか仮想空間のようだ。
「裕福な住人は郊外などの別荘に行ったまま、帰ってきません。観光客も姿を消しました。リモートワークが普及し、オフィスに通勤する人の数が激減したので、ターミナル駅の〈グランド・セントラル〉はひっそりとしていて、人の流れが無いため、迷子になりかけました。地下鉄は全員が座れる程度にしか乗客がいない。ラッシュ時でさえ、隣りの人とディスタンスをとって座れる。あまりにも人が少なく、怖いほどです。地下鉄の運行本数も減り、週末はさらに減便され、事前に時刻表を調べて行ったのに、30分も待たされたことがあります」

[ミッドタウンに位置する、NY最大のターミナル駅〈グランド・セントラル〉。
 コロナ禍以前は、渋谷のスクランブル交差点のように、終日、多数の乗降客で混雑していた]

 1月のとある日、田中はミッドタウンのアウトドアのレストランで友人とランチをした後、徒歩で自宅に向かった。その日は大雪だったが、田中にとって、勝手知ったる数十分ほどの道のりは、頃合いの散歩になるはずだった。すると五番街の高級宝飾店〈ティファニー〉に差しかかった頃、見知らぬ男性が田中の様子をうかがっていた。五番街と言えば、世界に冠たる高級ブティックが軒を並べる、いたって治安の良いエリアである ―― コロナ禍以前のニューヨークでは。
「見ず知らずの若い男性でした。気配を感じて私が早歩きすると、彼も足を早め、私が止まると彼も止まる、走って振り切ろうとしても、追いかけてくる。ほんとうに恐ろしかった。一刻も早く手近なお店に駆け込みたいのに、どこもかしこも休業中。3ブロックほど先でようやく営業中だった〈Tod’s〉に避難し、事なきを得ました。
 私が東洋人だからターゲットにされたのか、それとも単なる物取りだったのか、今となっては分かりません。私の娘の身辺でも、同じようなことが起きています。コロナが蔓延し始めた2020年の春頃、娘がマスクをして外を歩けないと言うんです。日本ではマスクをするのは当たり前ですが、アメリカでは、コロナ・ウィルスを〈チャイニーズ・ウィルス〉と呼んではばからない大統領が在任中でしたから、マスクをして外を歩いたりすれば、どんな嫌がらせをされるか分からない。そういう空気が漂っていたそうです。私の家に来る途中、地下鉄の車内に不審な人物がいるから、いったん降りて車両をかえる、と電話をしてきたこともありました。
 ところが同じ日本人なのに、息子はそういう目にあったことがない。力の弱い女性や年配者が暴力の標的にされかねないなんて、ひと昔前の、治安が悪かった時代のニューヨークに逆戻りしたようです」

ニューヨークからダンサーが去っていった

 2020年3月に感染拡大を防止するべく、ニューヨークの劇場は扉を閉ざした。3週間程度で再開する予定だったが、その後、感染者が爆発的に増え、休演期間は延長に延長を重ねている。
「ニューヨークは色々なものが共存する刺激に満ちた街だったのに、その全てがなくなってしまいました。出かける場所といえば、完全予約制になった美術館くらい。映画館は3月末に入場者数を制限して営業を始めたようですが、劇場の再開は、早くても5月以降だろう、と言われています*。多くのダンサーが、ニューヨークを離れてしまいました。ニューヨークにいても、何もありませんから。劇場が閉まっている、スタジオが閉まっている、ライブの公演がない、仕事がない、レッスンを受けられない。何か活動するチャンスがあっても、リモートに切り替えられている。ダンサーがニューヨークにいるべき理由がなくなり、家賃の安い郊外に転居したり、郷里に戻ったり、すっかり分散してしまいました。世界中からこの街を目指してダンサーが集まっていたのに。この状態が一時的であることを願っています」

* ブロードウェイを含む劇場は、2021年9月に入場制限なしで再開した。

[劇場街ブロードウェイの一角。かつての渋滞の名所を行き交う車と歩行者は、目を疑うほどに少ない]

 田中の家族は、各々、飲食業やスーパーマケット等の経営に携わり、ニューヨーカーの生活を支える重責を担っている。おいそれとニューヨークを撤退することはできない。夫君と息女と子息は、〈エッセンシャル・ワーカー〉として、早々にワクチン接種を済ませている。
 とはいえ、田中にとって、ダンススタジオの長期にわたる閉鎖は悩みの種だった。
「レッスンを受ける場所がなくなり、体がなまってしまいそうでした。稽古場を併設した東京の自宅とは違って、ニューヨークの住まいではストレッチ程度はできるけれども、思う存分、踊れません。体慣らしに通っていたバレエ・スタジオは、子供向けのレッスン以外はリモートに切り替えていました。でも、リモートのバレエのレッスンには、限界があります。教師はエクササイズの手本を見せることはできても、パソコンやスマホのモニターの中で動いている生徒の様子をチェックできない。センターのエクササイズになると、受講者はあちこち動き回りますから、なおさら目が届かなくなり、教師はアドバイスをするどころではありません。ライブのレッスンなのに、事前に収録されたレッスンをオンラインで見ているのと大差がありません。知り合いのダンサーでも、リモートでレッスンを受けている人はあまりいませんでした」

コロナ禍のニューヨークで踊りの原点を見つめる

2021年4月現在のニューヨークでは、ライブのパフォーミング・アーツとしてのダンスを見る、踊る、あるいは学ぶことはできない。だからといって、人々の生活のなかから、ダンスがなくなってしまったわけではない。たとえば2021年1月、米大統領選で民主党のジョー・バイデン候補の勝利がようやく確定した際には、全米各地で多数の支持者が街中に繰り出して歌い、踊り、喜びを爆発させた。共和党のドナルド・トランプ候補を支持しない〈アンチ・トランプ〉派が多勢を占めるニューヨークでも、踊りの輪が広がった。
「踊りの本質はまさしく、そこにある、と思いました。踊りの原点に立ち戻ろう、という気持ちが湧いてきました。喜びが自分を踊らせる。悲しみが自分を踊らせる。形ではなく、自分の心、自分の気持ちが自分をそう踊らせる。私自身、コロナ禍の渦中に身を置き、普段とは違う生活を強いられた中で、踊りの本質とは何なのか、改めて考えさせられました。色々なスタイルの踊りが生み出され、形を重視する多様な踊りが存在するけれども、形ではなく、自分の中から湧き出してくるものが、踊りの表現になる。技術にとらわれず、踊る心を取り戻そう。今こそ、踊りの原点に立ち戻ろう。そう考えさせられました」
 田中が自ら経験した厄災は、コロナ禍だけではない。2001年9月11日のニューヨークとワシントンD.C.での同時多発テロ、2011年3月11日の東日本大震災の渦中にも身を置いた。
「人生80年だとしても、3つの厄災全てに居合わせてしまいました。人災と天災だけでなく、人災と天災が複雑に積み重なった厄災。とりわけコロナ禍は、人類に与えられた試練である。そう受け止めました。前に進み過ぎていたからこそ与えられた試練。今は、我が身を省みるだけでなく、歩みを止めて、人類の生き方、社会のあり方を省みるべき時期なのではないか。この試練を乗り越えて、私達が経験したマイナスをプラスに変えていかなくてはならない。これが今、この時代を生きる私に、そして私達に課せられた使命なのだと痛感しています」

Photos by Izumi Tanaka.



Interview and text by Sako Ueno 上野房子

上野房子プロフィール

ダンス批評家
共同通信、音楽新聞他に寄稿
翻訳書にヴァレリー グリーグ著「インサイドバレエテクニック 正しいレッスンとテクニックの向上」
明治大学・明治学院大学非常勤講師
目下、スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」の翻訳の仕上げに邁進している。