"Fullness" 田中いづみ という生き方
東京〜ニューヨーク に生きる ----- ダンサー、振付家、女性、妻、母、人として

「田中いづみ連続ロングインタヴュー」by上野房子

第8回 NYU 講師編

 1991年5月にニューヨーク大学(NYU)ダンス教育学部の修士課程を修了し、修士号〈Master of Arts〉を取得した田中は、同年9月、母校に戻り、指導者として新たな一歩を踏み出した。
 彼女の熱心な勉強ぶりを見守っていた指導教官にしてダンス教育学部長でもあったDr.パトリシア・A・ロウ(Dr. Patricia A. Rowe)は、田中に博士課程への進学を勧めた。しかし家庭を持ち、二人の子供の育児の真最中だった彼女にとって、修士課程以上の時間と気力を勉学に割くことはあまりにも難しい。敢えなく辞退したところ、講師として大学に残ることを提案された。田中は快諾した。その年の修士課程修了者のうち、講師に任命されたのは、彼女だけだった。

 担当講座は、モダンダンスの実技。1999年までの八年間、ほぼ毎学期、週に二回、ダンス教育学部に赴き、大学院生を指導した。受講者は、おおむね二十代前半から三十代の男女十名前後で、彼らの出身国はアメリカおよび日本、韓国、ヨーロッパなど。大半の学生が、学校教育でのダンス指導者を目指していた。

 「どの受講生も、基本的なテクニックを身につけたダンス経験者で、柔軟性などの身体能力にも特に心配はありませんでした。彼らの踊りをさらに安定させるために、引き上げを意識することや、身体のコア(体幹)を鍛えることに取り組みました。素早く体重を移動させる、必要最低限の力でバランスを取る、といった訓練も積極的にやりました」

もう一つ、田中が留意したのは、受講者一人ひとりの自由な表現を引き出すことだ。

 「ダンススタジオ等のレッスンであれば、指導の主な目的は、ダンサーとしての実力を伸ばすことにあり、身体の使い方やテクニックを向上させることを重視します。けれども、私が担当したクラスの受講者達の目標は、ダンサーや振付家ではなく、教師になること。ですから、各自のテクニックを磨くだけでなく、他人を指導する際の素地を広げることを念頭に置いて、各自が自由に表現することを促しました。また、個々のテクニックの細部にこだわるのではなく、テクニックの体系がどのように成り立っているのか、その全体像を把握する必要があることを、生徒に認識させました。第三者を指導するにあたり、指導内容をまず自分自身で習得しておかなくてはならない、ということも強調しました」

つい数ヶ月前までは学ぶ側だった田中が、教える側に立ち、何を発見したのだろうか。

 「他者の考えや意図を汲み取ることの大切さを再認識しました。受講生ごとに向き・不向がありますし、どのレベルの学校の教師を目指しているのか、学生によって異なります。相手の立場に立って、きめ細やかな指導をすることを、それまで以上に心がけました。受講生の意図を汲み取るために、記入方式でアンケートを取った記憶があります。一人ひとりの受講生の目標を把握し、カリキュラムに反映させることができました」
 レッスンではCDなどの音源を使わず、毎回、伴奏者が稽古場に設置されたピアノ、時には太鼓を即興で演奏した。日本のモダンダンスのレッスンでは、残念ながら、ライブ演奏を用いることは一般的ではない。

「伴奏者と事前に打ち合わせをすることはありませんでした。でも、たとえば私がここは無機質な感じと指示するだけで、頃合いの音楽を演奏してくれました。ピアニストの応用力、こちらの意図を読み取る順応力には感心しました。バレエ以上に幅広い音楽を用いますから、かなりの実力の持ち主だったのだと思います。太鼓の演奏には、メロディを伴わない、リズムだけで刻む音楽の面白さがありました」

十数週間単位で授業計画を立て、学期末には試験を実施した。

「実技を教えるだけでなく、学期末に筆記試験を行い、成績をつけることは、講師を依頼された時の条件でした。体の動かし方を確認したり、受講者自身の舞踊哲学を問う試験問題を作成しました。当然、英語で出題しますから、英語を母国語とする友人に設問内容をチェックしてもらったこともあります」

 ダンス教育学部の他講座の受講生と合同で行う学生公演〈スチューデント・コンサート〉も、学期末の定例イベントだった。会場は、ダンス教育学部がオフィスを構える校舎内に設置された小劇場。大学内の劇場ゆえ、ステージで十分に時間をかけてリハーサルを行うことができ、また、生徒が出演するにあたり、参加費は生じない。照明や音響など、ダンス公演のノウハウに通じたスタッフも擁していた。その他の舞台裏スタッフは 、NYUの指導者や勉強中の学生など、大学関係者が受け持った。

「スチューデント・コンサートのプログラムは、多彩でした。各授業の担当者の振付作品を受講生が踊る場合もあれば、学生自身の作品を踊る場合もありました。ソロあり、少人数の作品あり、大規模なアンサンブル作品あり。 修士論文の一環で創作した作品をこのコンサートで発表、完成に至るまでのプロセスを克明に記録し、修士論文として提出する学生もいました。パフォーマー志望ではない学生は、必ずしも舞台で踊った経験が豊かではありませんから、スチューデント・コンサートは、彼らにとって貴重な勉強の場、経験の場でした」

 振付家・ダンサー・大学講師としての〈公〉の生活と妻・母としての〈私〉の両方をやり遂げるには、1日24時間ではとうてい足りなかっただろう。幸い、ニューヨークではベビーシッターや料理・掃除などの家事をこなすヘルパーを雇う習慣が根付いている。田中も、夫君が経営する会社の従業員の血縁者といった繋がりをたどって、信頼できるベビーシッターを見つけることができた。  当時の自宅はNYUから徒歩圏にあったため、通勤に時間を取られることはなかった。しかし、講師という立場ゆえの緊張感はあったという。

「ほんとうに身の引き締まる思いで授業に臨みました。受講生は、とにかく貪欲に勉強します。四年制の大学を卒業し、いったん社会に出て仕事をした後、キャリアをさらに充実させるために大学院に進学した学生が多いですから、勉強しようとする意欲が違います。おまけに英語でクラスを進めなくてはなりません。時間の拘束は学生時代よりもずっと減りましたが、精神的には、相当のプレッシャーを感じていたように思います」

 スチューデント・コンサートを開催する際や次年度のカリキュラムを組む時などには、他講座を受け持つ10名ほどの講師と共に会議に出席した。すべて英語で行われる会議は、学生として受講する講義とはまったく勝手が違う。英語を母国語としない学生が講義を受ける際には、指導者側は平易な英語を使い、学生の英語が流暢ではなければ、発言の真意を汲み取るといった心配りをする。しかし講師陣が顔を合わせる場では、外国人であることは何も考慮されない。誰もが対等なのだ。

「出身地はもちろん、常勤・非常勤の別なく、誰もが対等の立場で会議に参加し、公演を成功させるために力を尽くしていたことが印象に残っています。年齢も任期の長短も関係ありません。自分の意見をはっきりと述べ、反対意見にひるむことなく、相手の見解との相違点を見出し、折り合いをつけていく。真剣勝負だと思いました」

緊張感みなぎる会議の有り様は、
大学レベルのダンス指導者の矜持であり、彼らの社会的立場の高さの現れでもある。

「同僚の講師たちは、指導者としての誇りを持っていました。社会からも必要とされ、相応のリスペクトを受けていたと思います。私自身、大学で教えることに大きな責任を感じていました。大学でダンスを指導することは、単に技術を教える仕事ではありません。ダンスという芸術に携わる人材を育てる仕事です。さらに多くの次世代の人材を育てるだろう指導者の育成に携わる仕事です。未来の指導者である学生たちが、指導者としての人生観を見出す手助けをする重責を担っているのです」

 アメリカの大学に設置されたダンス学部は、ダンサーや振付家の育成に重点を置いた学部と、指導者を養成する学部の二つに大別できる。授与される学位も異なり、前者は〈Master of Fine Arts〉、後者は〈Master of Arts〉だ。

「芸術家を育成するためのダンス学部がアメリカには存在し、ダンサーや振付家を育てています。さらに、ダンス教育に重点を置いたダンス学部も存在し、学校教育に携わる指導者を養成しています。異なる目標を掲げた学部が共存することによって、ダンスという芸術の頂点を高めつつ、社会にダンスを浸透させ、底辺を広げていくのです」

 全米各地の大学にダンス学部が設けられているが、ニューヨークという地で学び、教えた意義を田中はこう総括した。

「文字通り、世界各地から集った学生が、肩を並べて学ぶ。それがNYUのダンス教育学部の最大の強みです。つまり、様々な文化で育ち、異なる教育システムで勉強をしてきた学生が一堂に会するからこそ、それまでには得る機会のなかった知識を吸収し、経験を積み、次のステップを踏み出すことができる。指導者としての視野を広げることができるのです」



Interview and text by Sako Ueno 上野房子

上野房子プロフィール

ダンス批評家
共同通信、音楽新聞他に寄稿
翻訳書にヴァレリー グリーグ著「インサイドバレエテクニック 正しいレッスンとテクニックの向上」
明治大学・明治学院大学非常勤講師
目下、スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」の翻訳の仕上げに邁進している。