"Fullness" 田中いづみ という生き方
東京〜ニューヨーク に生きる ----- ダンサー、振付家、女性、妻、母、人として

「田中いづみ連続ロングインタヴュー」by上野房子

第7回 ニューヨーク大学大学院進学 ----- 最良の場でダンス教育を学ぶ

 1985年11月から86年9月まで、ニューヨークでの10ヶ月に及ぶ芸術家在外研修を終えた田中いづみは、日本に戻り、舞踊家として新たな章を歩み始めた。といっても、彼女の創作や踊りのスタイルに目に見える変化が生じた訳ではない。しかし翌87年1月に催した帰国後初の主催公演は、舞踊家としての在り方に変化が生じていたことをうかがわせる。それまでのリサイタルのプログラムが、他の振付家が彼女のために振り付けた作品を中心にしていたのに対し、帰国公演では、田中の振付による大小作品を上演した。

 「この時、ほんとうに振付をしたい、今後も振付をしていきたい、と心の底から思いました。それまでの私は、どちらかというと、ダンサーとして踊ることに重きを置いていました。ニューヨーク研修中、自分で自分に振り付けた1時間半ほどのソロ作品を発表した時に、ソロならではの大変さを体験していましたが、帰国公演は、他のダンサーに振り付ける喜びを見出すきっかけになりました。振付をするということは、その作品を踊る人を知ることです。自分自身で踊る作品を振り付ける場合は、自分を既に知っているからこそ辿り着ける境地があるけれど、そこから踏み出し、想像すらしていなかった世界を発見する、といった発展性には欠ける。一方、未知のダンサーへの振付であれば、他者と向き合いながら、作品を形にしていきます。つまり、その先にどのような発見があるのか、分からないまま模索するわけですから、振付家としてより大きな挑戦をすることができる。これが、他者に振付をすることの醍醐味なのだと思います。」

 同じく1987年12月には、現代舞踊協会が制定する新人賞受賞者による現代舞踊公演に、新作『夢幻からの使者』を出品した。弟子である島田美智子、田川慶治を始めとする数名の若手ダンサーに振り付けた作品で、田中自身は出演していない。舞踊家・田中いづみのキャリアは、着実に新たなステージに進んでいたのである。

〈田中いづみ在外研修帰国公演〉

1987年3月21日〜22日、俳優座劇場 (東京都港区六本木)
田中いづみ振付
 『NEXT』(出演:田中いづみ)
 『海岸坂の午後3時』(出演:田中、高野宏之)
 『Infinity』(出演:アンサンブル)
 『ハバナ椅子デイ』(出演:石川須ズ子、石川須ズ子舞踊団主要メンバー)
〈新人賞受賞者による現代舞踊公演〉
1987年12月10日、都市センターホール(東京都千代田区平河町)
田中いづみ振付『夢幻からの使者』(出演:田川慶治、島田美智子、山下いづみ他)

ニューヨーク大学大学院進学 ―― 最良の場でダンス教育を学ぶ

 これらの公演と前後して、田中の生活の間口と奥行きはいちだんと広がり、本インタビューの副題〈フルネス〉を地でいくものとなった。ダンサー・振付家として活動を続けるかたわら、結婚し、出産し、ダンス指導者としての引き出しをさらに豊かにするべく、大学院に進学したのだ。夫君がニューヨーク在住だったことから生活の場を同地に移しており、ニューヨーク近辺の大学に進むことは、順当かつ最良の進路だった。1989年1月、ニューヨーク大学(New York University)、通称NYUの教育学部ダンス教育専攻修士課程に田中は入学した。

 1831年に創設されたNYUは、現在、法学部、経済学部、医学部、看護学部、芸術学部ほかを擁する、アメリカ有数の私立大学だ。田中が入学した教育学部はアメリカ最古の教育学部で、教育・文化・芸術に携わる人材を輩出したことでつとに知られている。

 「ニューヨーク一帯には、ダンサーや振付家の育成に実績を持つ大学が幾つもあります。ニューヨーク州立大学パーチェース校、ジュリアード音楽院ダンス学部、NYU芸術学部〈Tisch School of the Arts〉は、その代表格です。でも私が勉強したかったのは、実技やパフォーマンスではなく、ダンス教育。指導者に必要とされている知識の何たるかを知り、その知識を吸収したかったのです。NYUの教育学部には、そのための講座が設けられていました」

 進学準備の手始めとして、英語を母国語としない学生を対象にしたNYUの付属英語スクール〈American Language Institute(ALI)〉に学んだ。アメリカの大学では、外国人の応募者に対して、世界規模で実施される英語力判定試験〈Test of English as a Foreign Language〉で一定以上の成績をおさめていることを入学要件とする場合が多い。NYUでは、独自の英語試験の合格者およびALIの最上級課程修了者に応募資格を授与するシステムを取っている。

 ALIで英語力を磨いた田中は、NYUのダンス教育学部修士課程に応募した。同学部では日本の大学のように一律の入学試験は実施せず、志望動機やそれまでの経歴を綴った入学願書を提出した後は、学部・専攻により異なる審査を行い、個々の応募者の資質や適性を吟味する。田中の場合は、ダンス教育学部の学部長と面談し、その日のうちに小論文を書く試験を受けた。すでに東京でダンサーとして、振付家としてキャリアを積んでいた田中はこの関門を無事に突破、晴れて正規の学生として入学を果たした。

 田中の専攻は、〈Dance in Higher Education〉。大学および高等学校のダンス指導者の教育に特化した部門である。 四年制大学で心理学を専攻していた田中にとって、ダンスを大学教育の場で勉強するのは初めての経験だった。

 「モダンダンス、バレエなどの実技は最低限におさえ、できるだけ多くの座学を受講しました。キネシオロジー(運動生理学)、栄養学、バレエ史、コンピューター。創作や即興のクラスでは、受講生が教える立場につくことを前提にして、技術の習得ではなく、作品創りのプロセスを教えることに焦点があてられていました」

指導者になることを想定した講座での発見

 受講者がやがて指導者になることを想定した教育学部ならではの講座を通して、田中は多くの発見をすることとなった。

 「創作法のクラスでは、当初、実際に踊ることはしませんでした。受講者たちは、4、5人の小グループに分かれて、その都度、指導教官が設定するテーマに沿って、話し合います。ディスカッションを通して、各々の振付家が何を目指しているのかを明確にし、その振付家が目指すものをどのように作品にするのか、具体的な方法を探っていくのです。他の受講者の意見に耳を傾けつつ、振付家自身で具体的な方法を考え出すこともあれば、グループ全体でアイディアを発展させていくこともありました。それまでの私は、振付を始める前におよその構成を考えてはいましたが、体を動かすことを優先させていました。このクラスのようなやり方で創作を進めるのはまったく初めてのことで、とても新鮮でした。まずは自分が何をしようとしているのかを明確にし、そのうえで他の受講者と会話をしながら、どのように作品を展開させるのか、徹底的に考え抜くのです」

 創作のプロセスを言葉にし、他者と意見を交換することは、すなわち、自身の創作の手法を客観的に分析することに通じる。

 「また別のクラスでは、どういう意図でその作品を創ったのか、どういうプロセスを経て作品にしていったのか、各人が説明してから踊る、というやり方をしました。“My intension is(私の意図は)”といったフレーズをあらかじめ与えられ、そのフレーズに従って、自分の意図を説明していきます。もともと人前で話すことが苦手だったのに、ましてや英語で話すのですから、ほんとうに大変でした。プリゼンテーションをする時には、十分に下準備をして臨みました。発言すべき内容を整理し、英語で説明する際のニュアンスを確かめるなど、人一倍、気を付けました」

 冬季休暇の間に単発で開講された、全く踊りに接した事のない学生も受講する身体表現の集中講座では、創作のプロセスを文章にすることに挑戦した。第三者と向き合い、その人物が備えている個性を引き出すことを主眼にしたクラスだったが、田中にとっては、振付者・指導者としての手腕を鍛える、あるいは思考のプロセスを鍛える場となった。

 「漠然と振り付けて踊るのではなく、一つひとつのプロセスを言葉にし、文章にし、確認していく作業を経ることによって、自分が何をしようとしているのか、明確に把握できます。漠然としたままでは、他人を指導できません。言葉の重要性を再認識させられました。踊りは体を媒体にした表現ですから、言葉は二の次だ、という感覚が私にはありました。でも言葉を使わずに、創作や指導をすることはできません。相手がどのようなバックグラウンドを持っているにしろ、言葉を交わして互いを理解することが、必要不可欠です」

 ともに学ぶ同級生は、年齢も経験も国籍も多彩だった。田中自身、日本で四年制大学を卒業してから、十年ほどが過ぎていた。

 「アメリカでは大学を卒業後、いったん社会に出て色々な経験をしてから、大学院に進む人は珍しくありません。私の周囲にも、四年制の大学を卒業して教師になった後、指導者として自分を高めるために、大学院に進学してきた学生がいました。どうしても勉強したいという意欲を持った人達ですから、勉強に取り組む姿勢が違います。年齢も経験もばらばらでしたが、指導者になるという共通の目標があり、私達の間には、同士のような繋がりがありました。教える側の観点に立つと、学生の目標が定まっているので、何を教え、何を提供し、いかに受講者をその目標に近付ければいいのか、指導内容を一本化できたのではないでしょうか。私自身、良い時期に進学したと思います」

浴びるように勉強した日々

 フルタイムの学生としてNYUに在籍するには、一定数の講座を履修しなくてはならない。ダンス教育学部では、学期毎に座学を3、4講座、実技を2、3講座ほど受講するのが、平均的なカリキュラムの組み方だ。座学の授業時間は1講座あたり2〜3時間、実技は1講座あたり2時間弱のクラスを週2回ほど。さらに修士論文を執筆するか、専攻によっては30分程度の作品を創作し、学内公演で発表し、そのプロセスを綴った小論文を提出すると、修士号取得に必要な要項を満たすことができる。田中は後者の創作と小論文により、全過程を修了した。

 一般にアメリカの大学、とりわけ大学院では、日本の大学以上に学生を猛勉強させる。授業の数自体は格段に多くないのだが、座学では予習が必須で、講義毎に関連文献を何十頁も読むように指定され、レポート等の課題も頻繁に出される。講義中には発言や質問をして積極的な姿勢で臨まないと、やる気がないとみなされ、成績に影響してしまう。実技であっても、前述した通り、創作のプランを練ったり、ディスカッションの準備をしたり、気を抜けない。

 「それこそ浴びるように勉強しました。これほど猛勉強したことはない、と思ったほどです。講義を三回欠席したら単位はとれない、と言われた記憶があります。実際には三回どころか、一回でも休めば、講義の内容が分からなくなってしまうので、授業を休むことは問題外。学期毎に定額の学費を払うのではなく、講座数に準じた授業料を払っていたので、休むなんてもったいない!という気持ちが募り、欠かさず授業に出席していました。この時期の猛勉強が、自分のキャリアを支えていると感じています」

 アメリカ屈指のダンスの中心地ニューヨークにキャンパスを有するNYUゆえ、教師陣の顔ぶれも多士済々だった。新進振付家セーラ・ピアソンや、エリック・ホーキンズ舞踊団の元団員ネーダ・ディアチェンコ等はアーティストとしての経歴もさることながら、きめ細かやな指導ぶりで受講生の支持を得ていた。

 「芸術家としてのキャリアがあり、なおかつ指導者としての経験のある人達が講師を務めていました。たとえばセーラ・ピアソンとパトリック・ウィドリッグは、ニューヨーク市内の劇場〈ジョイス・シアター〉や〈セント・マークス・チャーチ〉で作品を発表していたコンビです。とても人気のある講師でした。二人の即興クラスでは、身体を自然に委ねていく、心地よい手法を学びました。指導の特徴は、学生との隔たりがなく、一人一人の受講生に寄り添うような感じでした。学生のやり方の粗探しをせず、何でも受け入れる鷹揚さがあり、私達は自由に好きなように即興をすることができました。逆に自分というものがしっかりしていないと、何も得ないで時間が流れてしまうリスクがあるかもしれません。学生の主体性や想像力が試されるクラスでもありました」

 万が一、担当の教師が受講者の要望を満たさないようなことがあれば、学生達は黙っていない。ほぼ同時期にNYUに在籍、ダンス評論を専攻していた筆者が、唯一、田中と席を並べて受講したバレエ史の講座でのエピソードを紹介しておこう。

 パリ留学経験のあるその講師の担当は、フランスのバレエ史に焦点をあてた稀少な講座だった。しかし受講生がフランスのバレエ史に通じていないことを不服に感じたのか、その講師は何かにつけて受講生を見下すような態度で接した。今日であればアカデミック・ハラスメントのそしりを免れない言動に、受講生達は戸惑い、意欲をそがれた。田中と筆者を含む受講生有志は、ダンス教育学部を統括する教育学部全体のトップに面会し、その講師の言動の改善を訴え出ることにした。学部長からは、その分野のスペシャリストを講師に任命しているので、大学として各講師の指導法には干渉できない、との模範的な解答しか得られなかったものの、その後、その講師の言動はソフトになったように記憶している。

 NYUでの最初の学期で〈バレエ史事件〉に遭遇したため、以降の講座での苦労がたいした苦労に感じられなかったのは、田中にとって幸いなことではあった。ただし、その頃の彼女に時間の余裕があったわけではない。NYU入学時の彼女は一才の長女の育児の最中で、お腹には二人目の子供がいた。

 「授業のある日は、ベビーシッターに子供の面倒をみてもらっていました。自宅に戻るとなかなか集中できないので、授業の後は図書館にこもり、復習、予習のために本を読んだり、レポートを書いたり、試験の勉強をしたり。子育て中の私にとって、図書館でのひと時は、唯一、自分のために使える、貴重な時間でした」

日本とアメリカ、ダンス教育を取り巻く環境の違い

 アメリカの大学は純粋な学究の場であるだけでなく、その時点の社会で必要とされる実学を提供する場としても機能している。NYUの教育学部にダンスの高等教育専攻が存在するということは、すなわち、アメリカでの学校教育のなかにダンスが浸透していることの現れでもある。

 「アメリカでは、学校教育のなかにダンスというジャンルが浸透しています。州によって違いはありますが、少なくともニューヨークでは、幼稚園から高校に至るまで、たいていの教育機関のカリキュラムにダンスが取り入れられています。体育ではなく、美術や音楽と同じ芸術に位置付けられ、選択できるのです。当たり前のようにダンスを勉強する機会が設けられている結果、芸術としての裾野が広がり、ダンスに関心を持つ人が増え、良いダンサー、良い振付家をバックアップする土壌が育っていく。うらやましい環境です。日本では、平成24年にダンスが中学校の必修になったことは喜ばしいのですが、保健体育の一科目という位置付けです。ダンスは芸術であるはずなのに。その一方で、伝統芸能の公演を見る機会は設けられています。長い歴史に培われた伝統芸能は、実演家や愛好者の実数はさておき、芸術として認知されている。私自身、高校生の時に学校から能を見に行ったことがあります。でも、学校の団体鑑賞会でダンスを見たことはないです。ダンスが体育の一環になってしまうなんて、学校教育を管轄する文部科学省の役人を始めとする日本人の間に、ダンスが芸術であるという認識が浸透していないのでしょうか」

 そして1991年6月、NYUでの全課程を修了した田中は、修士号を取得した。指導教官や同級生と切磋琢磨しながら学び、試行錯誤し、挑戦を続けた二年五ヶ月の歳月の最大の成果は、何なのだろうか。田中は即答した。

 「生徒の個性を大事にすることです。基本的なこと、身体の動かし方、テクニックを教えた上で、その人、その人の個性を見定め、伸ばしていくことが、ほんとうの教育だと思います。日本にいると、他の人達と足並みを揃えることを重視しがちだと感じることが多いのですが、芸術の世界においては、それは違うのではないでしょうか。一般的なダンススタジオの教師であれば、自分の持っているもの、教えたいものを提供すればいいのかもしれない。生徒が足並みを揃えて上達することが最終目的かもしれない。しかし私は、スタジオであろうが学校であろうが、その生徒が必要とするものを教える義務があり、生徒の良いところを伸ばしていく責任があると考えて指導しています」

 現在、母・石川須ズ子と〈S.I.Tダンススタジオ〉ならびに〈石川須ズ子・田中いづみダンスアカデミー〉を共同主宰している田中は、ダンス教師としての矜持を保ち、自らが信じる教え方を貫いている。

 「私は母とダンススタジオを主宰していますが、学校での教育と同じように、一人ひとりに対応した教え方をしています。生徒の年齢も、プロ志望なのか否かも関係なく、その生徒に何が必要なのかということを念頭に置いて、生徒と向き合います。その生徒の立場に立って、より良い状態にしていきたい。教える限り、このやり方を貫きたい。そうでなくては教える意味がない。これが指導者としての私の信念です」



Interview and text by Sako Ueno 上野房子

上野房子プロフィール

ダンス批評家
共同通信、音楽新聞他に寄稿
翻訳書にヴァレリー グリーグ著「インサイドバレエテクニック 正しいレッスンとテクニックの向上」
明治大学・明治学院大学非常勤講師
目下、スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」の翻訳の仕上げに邁進している。