"Fullness" 田中いづみ という生き方
東京〜ニューヨーク に生きる ----- ダンサー、振付家、女性、妻、母、人として

「田中いづみ連続ロングインタヴュー」by上野房子

第6回 昭和60年度芸術家在外研修員としての充実した1年

現場で経験したニューヨークのダンス最前線

 〈在外研修〉ないし〈在研〉の通称で知られる〈芸術家在外研修制度〉は、舞踊や演劇、音楽、美術を始めとする「各分野の若手芸術家等に、海外で実践的な研修に従事する機会を提供することによって、わが国の芸術文化の振興に資する」という趣旨の下、昭和42年(1968年)に文化庁が発足させた制度である(平成14年に〈新進芸術家海外研修制度〉と改称)。
 田中いづみは、昭和60年度の在外研修員に応募した。渡航費と1年間の滞在費が支給される在外研修員制度は、昔も今も、海外のダンス界の真っただ中に身を置く格好の機会を若手アーティストに提供しているのである。
「在外研修は、ダンサーなら誰もが目指す目標でした。インターネットが整備された現在とは違い、現地のスクールやカンパニーの情報を、東京に居ながらにして得る手段はほとんどありません。私達にとって、海外で勉強する機会は、ほんとうに稀少だったのです」
 とはいえ、田中はすでに日本でアルビン・エイリー舞踊団の来日公演を何度か鑑賞、同団の現役団員である岡紀彦(おか・みちひこ、1972〜85年在籍、88年逝去)氏が東京で開催したワークショップに参加、エイリー舞踊団がテクニックの基盤としているホートン・テクニックの手ほどきを受けたこともあった。在外研修に応募する以前から、田中は、エイリー舞踊団の付属スクールで学ぶ、という意思を固めていた。  研修員に選ばれる三年前には、ニューヨークの様子を実地体験するために、下見に出かけた。
 成田空港を飛び立った日本航空機がハイジャックされるという思いもよらない事件に巻き込まれ、いったん引き返した成田空港で待ち受けていた報道陣の取材に応じ、田中の姿とコメントが全国紙やテレビのニュース番組で報道されることとなった。再度、日本を出発したJAL便は無事にニューヨークのジョン・F・ケネディ空港に降り立ち、ようやく田中のダンス三昧の日々が始まった。エイリー・スクールに戻るべく、布石を打つことも忘れなかった。
「二週間の滞在中、朝から晩までレッスンに通い詰めで、アルビン・エイリー・スクールでは、一日に六クラスも受けていたほどです。エイリー舞踊団の基盤になっているレスター・ホートンのテクニックを中心に、モダンダンスやジャズを受講しました。スクールのディレクターに面会して研修員の応募に必要な〈受入れ承諾書〉の発行を申請し、後日、郵送してもらいました。それほど英語が堪能ではなかったのに、我ながら、よくやったと思います。在外研修でニューヨークに行けると確信していた訳ではありませんが、だからといって、私には無理だとは思っていませんでした」

 厳正な審査を経て選ばれる舞踊関係者の定員は、年間二名。在外研修に応募した時点の彼女は、埼玉全国舞踊コンクールで一位に輝き、音楽新聞新人賞や現代舞踊協会制定新人賞を相次いで受賞、ソロ・リサイタルも開催していた。とはいえ、ダンサー・振付家として十分に実績をあげているからといって、在外研修員の席が確約されることは、けっしてない。審査員の任務は、審議を重ね、日本を代表して海外に派遣するに相応しい人物を選び出すことにあった。
「書類選考を経て、面接を受けました。面接者は、文化庁で在外研修を管轄する担当職員や舞踊批評家の方達でした。英語での質疑応答もありました。果たして私がニューヨークで何をしようとしているのか、明確な目的を持っているのか、その目的を達成できる行動力を備えているのか、現地で在外研修員の名に恥じない行動が出来るのか。国のお金を個人に託す訳ですから、ダンサーとしての実力や実績だけでなく、 一人の人間としての資質を吟味されているように感じました」

〈アルビン・エイリー・スクール〉で振付家エイリーの真髄に触れる

 多数の応募者の中から、ジャズダンスの土屋亜利砂と共に、田中は研修員に選出された。1985年9月18日、草月ホールで第三回リサイタル「VOL.3 田中いづみダンスリサイタル」を成功裏に終えた翌々月の11月、昭和60年度文化庁芸術家在外研修員としてニューヨークに旅立った。  その当時、現代舞踊に軸足を置く研修員の多くが研修先に選んだのは、マーサ・グラハムの付属スクールだった。グラハム舞踊団には、カリフォルニア州に生れ、日本で育ったユリコ・キクチ(1920〜)が1940年代に入団して以来、日本人ダンサーがほぼ間断なく在籍していたことから、現役団員が日本の舞踊公演に客演したり、ニューヨークのスクールで学んだ人々が日本でワークショップを行なったりしていた。1982年にグラハム舞踊団在籍中の木村百合子が東京バレエ・グループ第22回公演に出演し、横井茂の振付による『ジャンヌ・ダルク』で標題役を演じた際には、田中もゲストダンサーとして同じ舞台に立っている。 グラハム・スクールは、 日本の現代舞踊界にきわめて近しい存在だったのだ。  しかし、彼女は迷うことなく、アルビン・エイリー・スクールにフルタイムの生徒として編入した。田中の選択を後押しした主な要因は、三つある。
 まず、振付家アルビン・エイリー(1931〜1989)が1960年に初演するや、彼の十八番演目となった『リベレーションズ』との出会いだ。 「アルビン・エイリー舞踊団が来日する度に、公演を見ていました。なかでも心を揺さぶられたのは、黒人霊歌に振り付けた『リベレーションズ』です。何度見ても感動する、何度でも見たいと思える作品に出会えるなんて、めったにないことです。名もない人々の心の奥底にある苦悩や喜び、神を信じる姿を描き出し、見る人の心を揺り動かす作品です。奥深いテーマを描いています。けれども、けっして難解ではありません。その人がダンスを見慣れているのかどうか、といった予備知識の有無も関係ありません。観客にダイレクトに訴えかける魅力をたたえている。日本で平林和子(注)氏からひと通りグラハム・テクニックも勉強していたのですが、エイリー舞踊団のテクニックと作品に惹かれていきました。エイリーのダンサー達の動きから湧き出るエネルギーに圧倒されました。彼らが踊るエイリー作品には、深刻になりすぎない陽気さと迫力が満ちています。そして何よりも、形に囚われることなく、踊るということの原点を肌で感じたい、エイリーの拠点で刺激を受けながら作品創りの勉強をしたい、という意欲を持つようになりました」

(注)
名古屋出身のダンサー、振付家、教師。1958年にニューヨークのジュリアード音楽院舞踊科に入学し、マーサ・グラハムおよびグラハム舞踊団員の下でグラハム・テクニック等を学ぶ。卒業後、ニューヨークを拠点に振付家として活動するかたわら、ジュリアード音楽院、アルビン・エイリー舞踊団付属スクール他で後進の指導にあたった。永らくニューヨーク州立大学パーチェス校ダンス学部長を務めた。1999年に、新国立劇場の制作による公演で『FAUST』全幕を発表している。2016年3月、ニューヨークで死去。

意外な発見----〈ホートン・テクニック〉と〈檜健次テクニック〉の共通点

 もう一つの要因は、エイリー舞踊団のテクニック基盤であり、なおかつ付属スクールのカリキュラムの中核を為す〈ホートン・テクニック〉を本格的に学ぶことだった。
 〈ホートン・テクニック〉と称される独自の訓練法を確立したレスター・ホートン(1906〜1953)は、モダンダンスの草創期だった1934年にロサンゼルスで舞踊団を設立し、多くの人材を育てた重要人物である。モダンダンス、イコール、白人の芸術と見なされがちだった当時、様々な人種のダンサーに門戸を開き、活動の場を提供した先駆者でもあった。
 ホートン舞踊団は、主宰者の急逝後、ほどなくして解散を余儀なくされるが、亡き師に深い敬意を抱くエイリーは、後年、ニューヨークで開設した自身のスクールのカリキュラムに、ホートン・テクニックを取り入れた。くだんの『リベレーションズ』にも、ホートン・テクニックをベースにした動きが散りばめられている。エイリー・スクールは、振付家エイリーの舞踊美学を学ぶ場であるだけでなく、ホートン・テクニックを今に伝える拠点であり続けているのだ。
 田中がエイリー・スクールに関心を寄せた三つ目の要因は、彼女自身の眼力によるもの、と呼べるだろう。
「実はホートン・テクニックには、 私の母、石川須妹子の師である檜健次(1908〜1983)先生のテクニックと共通する部分があります。岡さんのワークショップを受けた時も、エイリー・スクールで初めてホートン・テクニックのレッスンを受けた時も、びっくりしたほどです。その時点では、両テクニックの共通点を誰も指摘していませんでした。
 ホートン・テクニックの特色の一つは、直線的な動きを多用して、体幹を鍛えることにあります。その一方で柔軟性も重要です。空間に対する意識を高めるトレーニングも含んでいます。檜先生のトレーニング方法でも、同様に柔軟性を重視する〈流動〉や〈脱力〉といった動きを用いつつ、相反する直線的な動きを組み合わせ、体幹と下半身を鍛えていきます。
 新国立劇場が2015年3月に制作した現代舞踊公演「ダンス・アーカイヴ in Japan 2015」で、檜先生の『釣り人』(1939年初演)が復刻上演されました。その際、私は作品指導の補佐をしただけでなく、公演に合わせて刊行された「日本の現代舞踊のパイオニア----創造の自由がもたらした革新性を照射する----」に檜先生についての一文「生命への洞察を根底とした魂の舞踊家」を寄稿しました(発行:新国立劇場運営財団情報センター)。色々とリサーチをした結果、レスター・ホートンと檜建次の間に、アメリカのモダンダンスの先駆者でロサンジェルスに舞踊学校を設立したルース・セント・デニス(1879〜1968)という共通点があることを確認できました。つまり、ホートンはセント・デニスから多大な影響を受けていました。一方の檜氏は、1930年代、アメリカ滞在中にセント・デニスから学んだ運動技法を基本にして独自のメソードを作り上げたのです。両者のトレーニング方法に類似点があるのは偶然ではないのだ、と納得したものでした」

 初志貫徹してホートン・テクニックの総本山に乗り込んだ田中だったが、エイリー・スクールでホートン・テクニックを受講するには、グラハム・テクニックの全四課程を修了することが求められていた。しかし研修期間は1985年11月から1986年9月までの、正味10ヶ月。 田中には、グラハム・テクニックを受けている時間の余裕はない。そこで彼女は、個々の生徒のカリキュラムを指導するプログラム・ディレクターに直談判し、グラハム・テクニックの免除を申し出た。プログラム・ディレクターは田中の要望を聞き入れ、四段階に区分されたホートン・テクニックの〈レベル3〉、すなわち、最上級者を対象にした〈レベル4〉に次ぐ上級コースに彼女を送り込んだ。
 〈レベル3〉のレッスンで、田中は、日本人の身体と向き合うこととなった。
「受講者はほとんどがプロ同様のレベルで、おまけに手脚の長いアフリカ系のダンサーが多く、正直に言って、ショックを受けました。彼らの体は、プロポーションが良いだけでなく、柔軟で、バネが利いている。筋肉の質が日本人とは違っていて、必要最低限のボリュームで効率よく働いているようでした。持って生まれた条件自体が、並外れているのです。 稽古場で間近に見た彼らの身体能力の素晴らしさに、圧倒されました。 その頃の私はジャンプ力があると言われていたけれど、それはアジアの中での評価だったのです。ホートン・テクニックは黒人ダンサーに向いているテクニックなのかもしれない、自分で思い描いていた通りにはいかないのだ、と思わざるを得ませんでした。
 日本人には、小柄で器用なタイプのダンサーが少なくなく、それが個性になることはあり得ますが、私は日本人としては背が高い方です。でも、だからといって、黒人ダンサーの真似はできない。彼らの長所を吸収し、自分ならではの踊りを追求しなくてはならないのだと痛感しました。といっても、簡単に答えを見つけられる問題ではありません。ニューヨークで感じたこの“ショック”は、肉体条件や技術の優劣を超えた踊りを探求すること、探求し続けることの大切さを再発見する契機になりました」

指導者気質の違い、受講者の熱い気概

 日本とニューヨーク、あるいは日本人とアメリカ人の違いに開眼し、自身の進むべき道を展望することこそ、海外で武者修行をする意義の一つだろう。もちろん、その違いを発見するためにはアンテナをはり巡らさなくてはならないし、学んだことを自分の血肉にしていくための吸収力も持ち合わせていなくてはならない。漫然とレッスンを受けるだけでは、ニューヨークのダンスを享受することはできないのだ。 「ニューヨークでは、エイリー・スクールのように通年で生徒を受け入れる学校は一握りしかなく、大多数がその都度、レッスン代を支払って受講するオープン・スタジオです。受講者の顔ぶれも彼らのレベルも、レッスン毎に変化します。だからといって、指導者が手を抜くことはありません。熱心に自分の知識を伝授してくれます。ただし、個々の生徒に対して、手取り足取り指導する習慣はありません。日本の指導者のように、自分の生徒を育てよう、彼らの人間性の教育にも心を配ろう、という考え方はしていないのです。別の言い方をすれば、生徒は自分の意思でレッスンを受け、教師から学べるものを自分の力でつかみ取らなくてはなりません。自分に何が必要なのか、何が不足しているのか、どうすれば上達できるのか。自分自身で考えて、取捨選択しなくてはならない。上級レベルになればなるほど、受講者が必死にレッスンに取り組んでいることを肌で感じました。吸収力の勝負です。自己責任です。
 当時の日本では、現代舞踊協会の若手公演や所属しているスタジオの公演に出演するなど、ある程度、舞台に出る機会が用意されていました。コンクールは、誰にも門戸が開かれています。けれどもニューヨークでは、踊るチャンスは自分でつかみ取るものです。困難に挑む覚悟を持った、何人ものダンサーに出会いました。コンクールのように直ぐに結果が出る目標ではなく、さらに大きく長期的な目標を掲げて勉強し、踊りにぶつかっていく彼らの純粋さ、ひたむきさが心に残っています。そうでなくては、ニューヨークでは生き残れません」

 では、日本人ダンサーが、ニューヨークという激戦区で生き残り、恩恵を享受するためには、どうすればいいのだろうか。
「日本人ダンサーが、右も左も分からない状態でニューヨークに行ったとすれば、成果をあげるのは難しいのではないでしょうか。日本の舞踊界で精一杯、活動した経験があるからこそ、ニューヨークで次のステップに進めるのだと思います。日本での積み重ねがあれば、 自分が何を学びたいのか、何を吸収したいのか、明確な目的を定められるはずです。目的が定まれば、それを全うするために全力を尽くせるはずです。それまでの経験をバネにして、ニューヨークでさらに飛躍できるでしょう。日本の舞踊界では自分は評価されない、 コンクールに出場しても入賞できないから日本を離れたという人達にも出会いましたが、残念ながら、踊りの道を歩み続け、新たな境地に到達できた人は稀でした。後ろ向きの思考では難しいと言えます。一発逆転できるとしても、稀有な個性を持っている人や、固定観念に縛られない特別な才能に恵まれた人に限られるでしょう。やはり、日本で着実に経験を重ねることによって、海外で吸収できるものが大きくなるのだと思います」

 ニューヨークのダンス界の恩恵を享受するためには、日々の暮しの基盤を整えることも必要だ。もちろん独力で、英語を駆使して----。 「在外研修員だからといって、誰かが生活基盤をお膳立てして、私を迎え入れてくれた訳ではありません。 当初は、たまたま紹介された方の知人の住まいが一時的に空いていたので、そこに仮住まいをしました。1月になってそこを退出し、自分で不動産屋を通して見つけたアパートに転居しました。水道も電気も電話も止まっていましたから、自分でそれぞれの営業所に出向いて契約しました。電気釜を持っていなかったので、鍋でご飯を炊いていたのを覚えています。東京の自宅は客人が多く、大人数の食事の用意はよくやっていたので、料理は苦になりませんでした」

 1980年代中頃のニューヨークは、現在に比べると犯罪の発生件数が多い、危険な町と思われていた。
「防犯を考えて、警備員を兼ねたドアマンのいるアパートを選びました。1階の玄関口でドアマンが目を光らせているので、住人以外の人は、たとえ親しい友人だとしても、訪問先の住人の了解を取ってからでなくては、中に入ることができません。ニューヨークでは、高級住宅に限らず、ドアマンのいるアパートは珍しくありません。それでも念には念をいれて、部屋の入り口のドアには、鍵を二つ、付けておきました。外出時には、バッグを手で持たずに、斜めがけにして、歩道の真ん中を歩くように心がけていました。車道寄りを歩くと、車が後ろから近づき、追いはぎにあうかもしれないし、不用意に建物寄りを歩くと、屋内に引きずり込まれるかもしれません。幸い、危険な目には逢いませんでしたが」

激戦地ニューヨークでオーディションを勝ち抜いた!

 持ち前の順応力を発揮して、ニューヨークでレッスンに通い詰める生活にすんなりと馴染んだ田中は、エイリー・スクールの外にも踏み出した。メイン・カンパニー入団前の若手が所属するセカンド・カンパニー〈アルビン・エイリーII〉の公演でエリザ・モンテの作品を踊り、オーディションを勝ち抜いて、ニューヨークで収録し、日本で放映されたFUJIカセットのテレビコマーシャルの出演者に選ばれた。数多のダンサーの中からオーディションで選抜されるのは、初めての体験だった。
「見ず知らずの人間が、見ず知らずのダンサーを選別するのが、オーディションです。業績も何も関係ありません。仕事を獲得するのが難しい反面、とても公平な競争だと思いました。日本の舞踊界は、多かれ少なかれ、お互いを見知っている同士で成り立っていますから、まったく面識のない第三者に選ばれ、仕事を託されたことは、自信になりました。
 FUJIカセットのコマーシャルのオーディションには、実は友人の付き添いとして同行し、様子を見学するつもりでした。ところが、ひと言、ふた言、話をした応募受付の担当者が私も踊りをやっていることを知り、せっかくこの場にいるのだから、急遽、オーディションを受けるように勧められました。
 一次選考では、応募者はただそこに立っているだけでした。外見だけでダンサーをふるいにかけ、二次選考で初めて、振付家から与えられたコンビネーションを踊りました。振付家が必要としているダンサー以外は、情け容赦なく、振り落とされるのです。様々な人種のダンサーを探していたようで、最終的に、白人と黒人とアジア人、12人ほどが選ばれました。ダウンタンの倉庫街〈ソーホー〉のスタジオで2日間にわたってハーサルをした後、本番を収録しました。ニューヨークでダンサーとして生きる厳しさを垣間見ることができました」

もう一つのビッグチャンス----初の全幕ソロ作品を発表

 滞在中、単独公演を敢行するという、千載一遇のビッグ・チャンスも手にした。長尺のソロ作品を自ら振り付け、自ら踊るのは、田中にとって全く初めての挑戦である。 会場はダウンタウンの小劇場〈Triplex Theater 2〉、日程は5月2日〜3日、昼夜2回ずつの全4公演だった。 「知人の森谷紀久子さんの紹介で、マーティン・ラッセル氏がプロデュースしていた〈第4回インターナショナル・オフェスティバル〉に参加し、1時間のソロ作品『Hero Girls』を発表しました。その時の私の気持ち----ニューヨークの街をさまよい、葛藤しながら歩み続ける----をオムニバスのように綴りました。 エイリー・スクールのスタジオを借りてリハーサルをしたり、ニューヨーク市内の公立小学校で子供向けのワークショップをやって、その報酬として講堂を借りて公演の準備をしたりしました。 今、思い返すと、良く言えば何にもとらわれない若さで生み出した作品、悪く言えば未熟な作品ではありましたが、
 ニューヨーク・タイムズ(1986年5月6日)に公演評が載りました。ニューヨークでは、日々、様々な公演が行なわれますから、批評家の目に止まったのは幸運なことでした。評者は、ジェニファー・ダニング。同紙の専任批評家です。彼女の批評は、ダンサーとしての資質は認めるが、振付家としては経験不足だ、という論調でした。実際、私がそれまでに作った作品は長くて十分程度の小品でしたから、自分自身、納得のいかない部分が多々ありました。今回は挑戦したことに意義がある、必ず次の機会を獲得して、もっと成長した自分を見せよう、と自分に誓いました」

ダンスのメッカで見た公演の衝撃

 ニューヨーク市内で間断なく行なわれるダンス公演を見ることも、生活の一部だった。たとえば、エイリー舞踊団が拠点とする劇場〈シティ・センター〉、ニューヨーク・シティ・バレエやアメリカン・バレエ・シアターが定期公演を行う劇場が軒を並べるパフォーミング・アーツの一大中心地〈リンカーン・センター〉、チェルシー地区にある中規模劇場〈ジョイス・シアター〉、〈DTW〉こと、前衛的なダンスのメッカとして知られる小劇場〈ダンス・シアター・ワークショップ〉、ダウンタウンの由緒ある教会で、週末にはダンスを始めとする種々のアーティストに会場を提供する〈セント・マークス・チャーチ)、〈BAM〉こと、ニューヨークに隣接するブルックリン地区に位置する先鋭的なパフォーミング・アーツの殿堂〈ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック〉。ニューヨークにはダンスの重要な拠点と目される大小劇場が点在する。
「ニューヨークは、つねに、世界のトップレベルのアーツに接することのできる場所です。アメリカン・バレエ・シアターやニューヨーク・シティ・バレエといった、アメリカを代表するバレエ団、ダンス界をリードする名前の通った劇場だけでなく、スタジオやロフトなど、ごく小規模な会場にも、度々、公演を見に行きました。 なかでも衝撃を受けたのは、ルシンダ・チャイルズです。素の舞台で黙々と踊っている彼女の存在感に、ほんとうに圧倒されました」
 本拠地ニューヨークで見たアルビン・エイリー舞踊団の公演も、きわめて衝撃的だった。
「出演者のなかには、スクールで一緒にレッスンを受けていた顔なじみの団員達がいました。彼らは一ヶ月も続くニューヨーク公演の真っ最中なのに、カンパニーでのレッスンだけでなく、自主的にスクールのレッスンに参加して全力で踊っていたのです。長丁場の公演を乗り切る体力と気力を持っていることに脱帽しました。これがニューヨークで生き抜くプロの姿なのだ、と思いました」
 東京で見ていた『リベレーションズ』はニューヨークでも人気演目で、田中は地元観客と共に、幾度もこの作品を鑑賞した。
「何種類かのキャストで『リベレーションズ』を見ました。誰が踊っても、ある一定以上のレベルが維持されていることは驚きでした。ダンサーの層が厚く、全体的なレベルが高い。彼らの渾身の踊りを見て、観客が盛り上がる。観客の反応に鼓舞されて、ダンサーも気分が高揚し、さらに熱演を見せてくれる。舞台と観客の間にある垣根が取り除かれるのです。両者が一体になって、一つの作品を作り上げていくようでした。東京公演の熱気の比ではありません。他のバレエ団の公演でも同じことを感じました。観客は客席でかしこまったりしない。楽しみ方を心得ていて、絶妙のタイミングで拍手をする。在外舞踊団の来日公演では体験できない、ダンス公演の在り方でした。
 ニューヨークの大型カンパニーの公演は長丁場です。エイリーの年末公演は1ヶ月、ニューヨーク・シティ・バレエやアメリカン・バレエ・シアターでは2〜3ヶ月のシーズンの間、連日、公演があります。公演の回数が多く、観客の総数も多い、そして観客のリアクションがダンサーを育て、より多くの観客が公演に足を運び、公演数がさらに増え、ダンサーがレベルアップしていく。素晴らしい連鎖を目の当たりにしました」
 公演の形態や会場の多彩さにも、田中は目を見張った。
「ニューヨークを拠点にしたカンパニーが劇場で公演するだけでなく、無名の若手振付家達がスタジオのような、ごく小さな会場で作品を発表する。ショーケースと銘打った、劇場側が選抜した若手の合同公演もありました。 最近のニューヨークとは比較にならないほどに様々な公演が、夜毎、行なわれる古き良き時代でした。その頃の日本では、モダンダンスの公演会場は主に劇場でしたし、若手が現代舞踊協会といった組織に属さず、個人で活動する例は少なかったので、ニューヨークのダンス公演の数と多彩さには、目を見張りました。私にとって、ニューヨークは最高の研修場所でした」

ニューヨーク研修の最大の成果

 10ヶ月に及んだ、ニューヨークでの在外研修。ニューヨークだから学べたことは、何だろうか。
「人種のるつぼと言われているニューヨークの真っただ中に飛び込み、様々な国籍、様々な人種、様々な文化的背景を持った人達と知り合い、共に学び、踊り、切磋琢磨しました。その結果、日本国内での活動に終始するのではなく、日本人としての誇りを持ちつつ、海外でどんな国の人とでも一緒にやっていこう、という意識が自然に育まれました。世界的なレベルに追いつくことを目標にし、そこに到達したら終わり、という狭い意識ではありません。同じレベルに立ち、同じ立ち場に立って、創作し、踊っていくことが当然なのだ、という感覚です。日本の舞踊界を離れ、ニューヨークで生活したからこそ、そういう意識を持つことができたのだと思います。ニューヨークでの10ヶ月は、私にとって、かけがえのない財産になりました」



Interview and text by Sako Ueno 上野房子

上野房子プロフィール

ダンス批評家
共同通信、音楽新聞他に寄稿
翻訳書にヴァレリー グリーグ著「インサイドバレエテクニック 正しいレッスンとテクニックの向上」
明治大学・明治学院大学非常勤講師
目下、スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」の翻訳の仕上げに邁進している。